孤憤

アイディアの不確定性

1 ハイゼンベルグ不確定性原理

 量子力学と言うものは厄介なものだ。ようやく宇宙開闢の謎を解いたかと思ったら、その解法から無数の疑問点が現れる。

 例えば、この宇宙を構成している素粒子と呼ばれる最小単位の粒子を突き止めたかと思えば、その素粒子は、まるで理解不能な挙動をしている事がわかってきた。

 量子力学で、「状態の重ね合わせ」と呼ばれる現象で、素粒子というものは、常に、同時に、複数の位置に存在しているという。そして、私たちが観測することによって、そのいくつかのケースのうちの一つが選択され、位置が決定するという。

 その意味するところは、この宇宙が何層にもパラレルに存在していて、そのうちのどの宇宙を選択するかは、私たちが「観測」した時点で決定されると言う。すなわち「観測」が行われるまでは、確率の差異は有るものの、無数の結果に繋がる可能性が存在すると言うことになる。

 アインシュタインは「私たちが観測しなくても、月がどこにあるのかははっきり計算で割り出せる。観測しなければ、場所が決まらないなんて、「神様はサイコロを振らない」」と言って、この不可思議な論理を否定した。

 しかし、数々の実験から、この不確定性原理を受け入れなければ説明できない結果が得られていて、もはや、現在では、多くの科学者がこの不可思議な現象を受容し、半導体・液晶等精密機械の開発に応用してきている。

 

2 アイディアの不確定性

 人がある日思いつく、自分ではユニークだと考えられるアイディアもまた、自分の内側に在るうちは、無数の可能性が存在する。

 しかし、こうやってブログに記して公表すると、誰かの一言で論破される愚論なのかもしれないし、逆に数百万人の耳目を集めるコロンブスの卵かもしれない。

 いずれにしてもそれを決定づけるのは、他人の評価(観測)である。

 

 ブログのサイドにも示している通り、当ブログは、「説難」と言うブログの続編である。

kanpishi.hatenadiary.jp

 私がそのブログを書き始めたのは、一つには、名だたる諸子百家の中でも、もっと評価されるべきと考える韓非子について、多くの人に知ってもらいたいと言う思いも有ったが、それより、自分の信じる論理や、自分が、世の中の人が知るべきだと考えているこの国やこの世界の実情について、果たしてどれほど正しく捉えているのか?それを知りたかったと言うことがある。

 つまり、不確定な私の発想の評価を確定させたかった訳だ。

 結構、幼少の頃から奇抜な発想で人を驚かせてきたので、期待も強く感じていた。 

 しかし、総投稿数60を数えたが、コメントはごく少数しか得られなかった。

 ただ、それでも、貴重な意見であった。

 韓非子という人物に強く関心を持つようになったという人もいれば、「日本人は、ムラ社会思考から抜け出せないから、韓非子の合理主義にそぐうかは疑問だ。」という声。

 説難で展開される「戦争と平和の効用をなんらかの方法で数値化することができれば、平和が正しい選択だと合理的に立証できる。」という私の主張に対し、「証券の世界では、『銃声を聞けば株を買え』という言葉が有る。数値化して選択されるのは、筆者の期待しているのとは逆のものかもしれない。」という。これなどは、まさに一言で、私の勝手な「絶対」を覆した。

 辛辣だったのは、一つ上の兄の意見で「俺がさぁ、このブログ読んで感想言ったら、代わりに「ナルト」1巻から100巻まで読んで、感想聞かしてくれるか?」と言うものであった。なるほど、自分の作品の感想を聞きたければ、相手の関心ごとに対してコメントをしてあげる事は当然の礼儀だろう。(正直、アニメのほうは見ようと思えば見られるが、原作を読むとなると相当きつい)

 ほんの数個の感想だけで、これだけの改善点、気づき、そしていくらかの承認、それらから派生する更なる思考の展開を得た。当然、もっとたくさんの人に読んでもらいたいという欲求に魅了された。

 はてなブログの製本サービスで、実際に製本を手にしてみると、出版への夢が抑えられなかった。

 しかし、事情があって、その夢は一旦お預けにした。

 

3 人生こそが不確定

 そもそも前作の執筆期限は当初から予定されていた。

 2021年から転職を考えていたからである。

 会計を教える仕事をしたかったので、40過ぎから3年間、簿記一級の取得を目指したが叶わなかった。そこで、目標を会計ソフト一本に絞ることにした。

 しかし、そうすると、かなり収益力が下がるので、娘と息子が在学中は、勝負に出ることができなかった。IT関連と会計ソフト実務の資格は持っているのだが、どちらも古くなっていたので、転職直前の試験を受けてアップデートする必要があった。

 そこに、3年間の空白期間ができた。

 せっかくだから、この機会に、日頃から感じている世間に訴えたいことを書き残しておこうと考えた結果が、前作の「説難」である。

 

 さて、資格取得に舵を切った私は、まずはリハビリ程度の気分で、おそらく余裕で60点は取れそうな資格試験を、当然合格ラインの70点を超えられる程度の勉強をした上で臨んだ。

 しかし、結果は中学生レベルの30点だった。

 私の中でようやく何かが壊れた。

 「そうかい、そうかい、そんなに私が自力で現状を覆そうとする事が気に入りませんか?」実はずっと我慢してきていたのだ。

 私は別に今の仕事が嫌いなわけではない。むしろ、憧れの職業だった。30代の頃は、ちょっとしたエリートコースを歩んでいた。しかし、実は多弁症という悩みを抱えていた。30中盤働き盛りの時、つい自己主張を抑えられず、多弁を振るったため、問題児のレッテルを貼られ、コースから落ちてしまった。

 以来、転勤する度に次の上司には、「よく切れる男だが取扱注意」という引き継ぎがされているようだった。勤務評定はずっとAをもらっているのに、管理職には推挙してもらえない日々が10年近く続いた。

 「二度と口では災いを起こすまい」と誓ったのだが、だんだん自分では、また多弁症が、抑えられなくなってきたので、心療内科に通い、向精神薬睡眠薬を常用することで凌ぎつつ、転職へ向けて自己研鑽を始めた。

 6年が過ぎ、このチャレンジに成功したら、収入は減るかもしれないが、大好きな会計学の知識で、会計ソフトの講師などをして、陰鬱な人生から解放されると考えていた。

 しかし、人生こそ不確定なものだ。

 私の病状は、前述の結果による落胆を受けて、急速に悪化した。

 感情が制御できない日々が続いたので、セカンドオピニオンを試してみた所、発想力・思考力が強すぎるのが問題なので、薬でこれを削げば良い。と言われた。

 主治医に相談したところ、「その薬は、あなたの独特な発想やワードセンスを奪うものだ。それは、才能であって個性ですよ。」と言ってくれた。しかし、「ありがたいお言葉ですが、私の組織では、その個性は害悪のようです。このままでは、家庭の平穏も危うい。誰にも「観測」されない不確定な才能より、今は、確実な平穏を望みます。」

 主治医は、残念がりつつも、薬を処方してくれた。暗示かもしれないが、とにかく「言葉」が出てこなくなった。情緒は安定するようになった。発想力の方は相変わらずのようだが、言葉に変換できないので、主張しなくて済んでいる。

 ブログの再開にはかなり葛藤があった。「説難」を執筆していた時のような、語彙力は無く、4000文字に抑えたいのに、うまく編集できない。読み返して自分でもニヤリとしてしまうようなユーモアもオチもキレもセンスも無い。

 しかし、それでも「孤憤」という火種が、消しても消しても消えない。

  

4 孤憤

 「自分ひとりではどうしようもない。世間の仕組みなどに、1人憤りを覚えるさま。」

 韓非子55篇のうち「孤憤篇」は、「五蠹篇」と並び、秦の始皇帝に「この著者に会えたら私は死んでも構わない。」と言わしめたといわれる傑作篇だ。

 孤憤篇をざっくり解説すると、君主を囲む近侍が、君主の耳を塞ぎ目を覆うため、真っ当なことや、本当に重要なことを語っている者の声が届かず、ただただ、孤憤するばかりだという内容である。

 確かに、韓非子の記述は現代でも通用するほど洗練されており、他の法家思想の集大成と言っても過言ではない。しかし、それは秦の始皇帝と言う超有名人が、その才能を観測し、評価を与えたから、2000年後の今まで語り継がれているのかもしれない。実際彼は自国の王子の一人であったにも関わらず、その国の王は、彼を珍重していない。

 彼の著作が、「孤憤」のまま埋もれていたら、その後の漢帝国400年もなかったかもしれない。全く、アイディアの生み出す結果は不確定だ。

(なお、秦の始皇帝との出会いは、彼にとっては2000年間の悲劇につながるのだが、その点については後日投稿する。)

 私が語彙力を壊滅的に失いながら懲りもせず、続編を書き始めたのは、やはり前作と同じ衝動によるものである。すなわち、自分の発想や持論がどれほど正しいのか?それを「観測」してもらいたいと言うことである。ネット内の他者と積極的に関わっていけるかは自信ないが、まずは書かなければ何も始まらない。

 それと、もう一つ、近年、中国である大発見があり、それが私に一つの勇気を与えている。2002年、湖南省龍山県の古城跡から、秦の時代のものと思われる3万5千枚の竹簡(書物)が発見された。『里耶秦簡』(りやしんかん)と言われるこれらの文献は、基本的には行政文書で、役人の記録なのであるが、かなり日誌に近い形式で記されており、当時の世情や生活様式如実に表していると言われている。

 国土の隅々まで、完全な法律を整備し、史上最高レベルの法治国家を築いた秦が、なぜたった15年で滅亡してしまったのか?いろいろな説が言われているが それだけでは説明がつかない部分がいくつか残っていて、その謎を解くカギになると言われている。

 例えば、始皇帝は自分の長寿にしか興味がなく、国民にはひどい重労働を科し、農民は重税に悩まされたと言う説があるが、発見された竹簡からは、法律は十分に吟味の上制定され、決して遡及適用されなかった(その法律ができるまでに犯した罪は問われない法律の第一原則)と言う。 そして地方役人でありながら、中央の考えをよく理解し、国家の目的のために一役人ができる的確な目標を立てていたと言う。

 今の大局を見ず、給与明細ばかり見ている、サラリーマン化した役人共に聞かせてあげたい話である。

 私は現在の地方で働く木っ端役人である。私の書いているブログがどの程度の可能性を秘めているかは、誰かに「観測」されない限りわからないわけであるが、2000年後何かの拍子にこのパソコンや製本が発見されるようなことがあれば、その「孤憤」は、きっと多くの研究者の興味を引く事は間違いない。

 そう考えると、キーのタッチが止まらないのである。

オーギュスト・ルノワール 『桟敷席』

 印象派の巨匠の1人ルノワールが第一回印象派展で発表した記念すべき1点である。特徴的なぼやけた輪郭に戸惑う観覧者も多かっただろうが、このタッチにその後多くの人々が夢中になる。

 ルノワールの生家は貧しくて、彼は15歳の時に陶磁器の絵付け工場で働き始める。このころ習得した筆遣いが後の傑作を生み出す基盤になったと言う人もいるが、彼が絵付け師のままで終わる人生を選んでいたら、後の傑作は生まれていない。彼が画家を目指したからと言っても、それだけでもまだ傑作に辿り着かない。良き師匠・良き学友に恵まれ、貧困の中でも習練を積むことができ、発表する場を与えられ、そして、その才能を認めてくれる観覧者に出会うことができて、やっと、現代の彼の評価に繋がるわけだ。

 才は有れども観測されず、観測される機会は多くとも、才がなく、全くこの世は量子力学のようだ。観測する観点によって無限の可能性が存在する。