孤憤

美しい「分散」が生む世界

 前回投稿は、Chapter2では、最重要事項と捉え、その草稿には随分時間がかかったのだが、その分、前のめりが強かったのか、久しぶりにスベッた感じになった。

 かなり投稿期間が空いた上にこんな話か?と言った反応に思えた。

 こういう独りよがりには、早い目に気づいて、読んでもらえる投稿をしないと、本当に伝えたいことが伝えられない。

 そこで、本稿では、やや趣を変えて、読み手に好奇心をもってもらえるような書き方にチャレンジしようと思う。

 

1 視聴率の実験

 その昔、東大の数学教授という肩書を持ちながら、無精髭を生やした小汚い風貌で一世を風靡したで秋山仁という数学者がいた。

 某国営放送で、子供達と数学の実験をして、数学の楽しさを伝える番組をしていた。

 その実験の中に、「どうして、ほんの一部の人の視聴率が、全体の視聴率と一致するのか?」というものがあった。

 実験では、プラスチックの玉を使っていたが、わかり易く、米を使ったことにしよう。

 米、50,000粒を用意した。重さは約1kg余り。そこから、紙コップで適当に掬ってみたところ、3,240粒掬えた。教授は、これを視聴者として、全て、赤いマジックで印をつけた。視聴率は、割り算して6.48%ということになる。

 インクが乾くのを待って、この視聴者粒を元の50,000粒に入れて混ぜさせた。そして彼は、忘れられない「重要」なことを言った。

 「何が大事かっていうと、ここでしっかり混ぜることなんだよ。いかに偏らないようにするかが大変なんだ。」

 子供達は、代わる代わる混ぜ役を代えて、教授がよろしいというまで、丹念に混ぜ続けた。

 そして、いよいよ、少数サンプルから視聴率を測る実験に入った。

 スプーンで、米を掬ったところ、最初は63粒ほど取れた。うち視聴者の印があったのは、4粒だった(サンプル視聴率は6.34%)は。これを三回ほど繰り返して、186粒掬ったところ、視聴者の印があったのは、12粒(サンプル視聴率は6.45%)になった。教授は、「もちろんサンプルを増やせば、この誤差はもっと縮まり、正確なものになるが、おそらく現実的には、このくらいのサンプル数で測っているのじゃないかなと思う。」と言う。

 サンプルの収集率は、186÷50,000なので、0.3%。日本の人口は、1億2000万人いるそうだが、世帯数は、5000万世帯程度らしい。0.3%というと、15万世帯。アナログ時代で、調査員が各戸訪問収集していたとしても、2~3000人いれば、1日で集計できただろう。今の技術を使えば、一分毎の視聴率がタイムリーに出てもおかしくない。

 

 参加した子供達は、少し手品でも見ているように不思議な面持ちをしていた。

 そこで秋山教授は、「この実験はね、君たちが一生懸命、視聴者の印のついた米が偏らないように、丁寧に丁寧に混ぜてくれたから成功したんだよ。少数のサンプルと、全体の確率が一致するには、視聴者がどの部分を掬っても同じ確率で掬われるよう、均等に散らばらなければならない。これを数学では「分散」と言って、とても重要視するんだよ。」

 そして、「視聴率のモニターを抽出する際は、性別はもちろん、年齢、職業、居住地、家族構成、年収などについて如何に偏らないようにするかが最も重要視されるんだ。」と説明した。このように、偏りのない分散を「美しい分散」と呼ぶとしよう。

 

2 集合知の奇跡

 「美しい分散」は、時折奇跡を起こす。

 色々な例が考えられるが、せっかくだからYouTubeで紹介されていた実話を例に取ろう。

 ある村の祭りで、牛一頭の重さを当てると言うゲームが開催された。参加者には、畜産従事者もいれば、会社員、子供も参加していた。その牛の重さは、1198ポンドであり、ある畜産従事者が、最も近似値の1205ポンドと投票していたため優勝した。

 さすが、プロは違うね。と感心させる催しのようだったが、後で、学者が興味を持って、投票者すべての回答を見せてもらった。300ポンドなどと言うあり得ないものもあれば、逆に3000ポンドという、まるでわかっちゃいない答えもたくさん有った。しかし、これらの平均値を正確に計算したところ、1197ポンド、つまり優勝者より近い回答になった。

 みんな優勝してお土産が欲しい。プロが混じっていても、もしかしたら、自分の予想の方が近いかもしれない。そうやって、無知な者も、ある程度わかる者も一生懸命考えた結果、見事に、答えの数値が均等に「分散」したわけである。その結果、その平均値は、専門家を上回った。これを、「集合知」という。分散が美しければ美しいほど、精度は上がると考えられている。

 人工知能(AI)の研究の中で、この集合知の奇跡を活用するものが有る。

 専門的で、正しい知識のみを詰め込んだAIよりも、極論・暴論・夢想といった、本来。正しい答えを導き出すには無用、もしくは邪魔になるはずの知識を蓄えたAIの方が、より最適な解を導き出すことがあるという、にわかには信じ難い研究結果も存在するらしい。

 

3 正規分布

 とてもシンプルなパチンコ台を作ってみよう。

 一番上は、釘が1本、2段目は2本、3段目は3本・・・・・いわゆるピラミッド状に組んでいくわけだ。そうだなあ、100段も作れば、私の話そうとしている現象がはっきり現れるかな。この時、底辺のスポットは、100本の間+両端で101ケースとなる。

 パチンコ玉を流すと、1段目の釘で、右と左に分かれる。右に行ったものは、2段目の右の方の釘に当たるのだが、さらに右に行く場合と、左に戻る場合とに分かれる。全部右を選んで、ピラミッドの底辺で右端のスポットに辿り着く玉が出る確率は、2の100乗分の1という天文学的数値だ。

 10万発〜20発くらい、球を転がした時、どのような形が現れるか?

 確率の低い量端の付近の球は少なく、真ん中に大きな山(ピーク)が形成される。

 これは、「正規分布」と言われる、自然界の鉄則で、確率上中心を境に左右対称となる。

 仮に、右を優秀・左を無能とし、優劣があるとしたら、極端に優秀な者と、極端に無能な者は、数は少ないが存在し、ごく平凡な者が、真ん中でピークを形成するだろう。

 大谷翔平や、羽生結弦藤井聡太くんたちは、まあ、右端の方にいるわけだ。

 その代わり、自然界の鉄則通り左右対称であるべきなら、彼らに匹敵する不遇を抱えた人が、少数だが必ず存在することになる。そう思うと、彼らの活躍も複雑な思いで見てしまいそうだ。

 しかし、救いは有る。正規分布のグラフは、裾野が広くなるほどピーク値が低くなる性質を持っている。つまり大谷選手が二刀流を見事にこなすことで、新たな多様性が生まれれば、その反対側にも可哀想な多様性が広がるわけだが、凡人の集中度は下がる。それは何に続くか?そう、選択肢の増えた世界へ人は分散され、美しい分散に近づいていくわけだ。

 

4 識路老馬

 韓非子五十五篇説林篇上「管仲の聖と隰朋の智とを以てするも、其の知らざる所に至りては、老馬と蟻とを師とするを難(はばか)らず。」世に名高い賢者といえども、道に迷った時は、自分さえも運んでくれない、役立たずの老馬に道を尋ね、喉が渇いても水辺が見つからない時は、稚拙・ひ弱な存在と言える蟻に水場へ案内してもらう。

 一見稚拙に見える考え、突拍子もない発想、夢想的な意見、から、多様なもしくは新しい視点の発見、共感と包括、それによる成長と学び、イノベーション等は、いずれも、多様性が均等に分散していることによって生まれる。平均的な凡人のみの集まり、または、有能な科学者と平民だけに偏った社会では実現しない。

 なぜなら、集合知が最適解を生み出す条件は、①均等な分散②十分な多様性③独立性④集約方法の合理性が挙げられるからである。

 ①②については、これまで話したとおりであるが、③の独立性は、非常に重要だ。実際、多様な価値観を持っている人々がたくさん住んでいる国で、集合知の効果が現れないのは、③の独立性を妨げる権力や情報操作が有るからだ。

 その点、日本は、権力からは守られているが、古くからの因習に縛られている点が残念だ。

 ④集約性については、集約する者が余計なことを考えず(つまり偏見を持たず、公平に)、ただカウンターを打ちさえすれば達成できる。

 韓非子のこの説話は、「重臣の話ばかり聞くのではなく、市井の庶民の声も聞け」と解されることが多いが、韓非子全体の記述には、「和氏の壁」や「善吏徳善」の説話に見られるように、奇人・変人・罪人であっても、その動向から学ぶことがあるとし、何かにつけ、間口を広げることを勧めている。

 法律を厳格に守らせる代わりに、かの法律とやらが、美しい分散と多様性を取り込んだ優れた集合知であることを求めている、と私は解釈している。

 

5  多様性を受け入れる≠多様性を取り込む   

 SDG‘sの現代社会では「多様性を受け入れるべき」と言う言葉がよく聞かれる。先日、ドラマ「不適切にも程がある」(通称:フテホド)では、マジョリティ絶対の理不尽な昭和と、マイノリティに気兼ねし過ぎて、やはり窮屈になっている令和とを「適切」に捉えていて、大変参考になった。

 世間の人々は、障害のある人や固定観念から外れた多様的思想を持つという、いわゆるマイノリティと共存することについて、双方が平等である事を前提にしているようであるが、それは幻想である。

 双方には超えられない段差が有るのに、妙な下駄を履かせて、不自然な対等を幻出させて、「共存」していると言うから、なんとなくしっくりこない社会になってしまうのだ。

 「受け入れる」などという上から目線の共存を考えているうちは、遠からず双方は不幸になる。“賢者は老馬や蟻に教わることも恥じない。”マイノリティが、特定の職域や地域、コミュニティに偏らないように、なるべく、この社会の至る所に満遍なく存在できるよう、「合理的配慮」を行って彼らの多様性を「取り込む」事で、「美しい分散」が発現し、未来に最適解を示してくれる可能性が出てくるわけだ。

クロード・モネ「エトルタ」

 クロード・モネ展を見てきた。平日に休暇をとって見に行ったのに、1時間半以上待ちという大行列だった。流石に70点全てモネという大盤振る舞いだけ有ってのことだろうか?私は、混雑する美術展は苦手だ。時折、スポーツファンの中に、ニワカファンをよろしく思わない人たちがいるように、私も、暗黙のルールを理解せず、絵もしっかり見なければ、自分の後ろもしっかり見ない人混みで鑑賞していると、ため息ばかりになってしまう。

 しかもこの日私は迂闊にも、お気に入りのサングラスを並んでいる途中で落としてしまった。少し値は張ったが、一目惚れで買ったブランドものだった。

 しかし、ここは日本、しかも、紳士淑女の集う美術館、一応「サングラスを落としてしまいました。」と声を上げると、案の定、行列は、団体行動のように頭を下げ、足元を見て探してくれた。しかし、残念ながら、拾い主はどこにも届けてくれなかった。

 もし、拾得物を横領するような者が居るとすれば、この空間では絶対的な異端者である。

 気分を害した私は、一旦昼食を取り、数時間後に戻ることにした。

 その間にこの原稿を書いていて、ふと自嘲した。「“盗人もモネを観る。”それも美しい多様性の分散なのか?」と。もし、モネを観て、楽しめたというのなら、あのサングラスはくれてやろうと思った。

 戻ってからも、少し待ち時間はあったが、館内に入ると、不思議と皆がハイソサエティな観客に見えた。数時間で生まれた「寛容」の心のせいか、物腰静かに、常に後ろに気を配る、お行儀の良さにばかり目が行き、大変気持ちよく鑑賞できた。この日のモネの「光」は、いつにも増して、美しかった。