孤憤

多様性を取り込む_その2

 韓非子五十五篇の11「孤憤」とは、法術の士が重臣に妨害されて才能をあらわせないことの憤りを言い、韓非の自著とされる重要な篇である。

 ここに、「主の利は労有りて爵禄するに在るも、臣の利は功無くして富貴なるに在り。」との記述が有るが、まさしく、今、我が国の国会議員を含む行政機関、およびマスメディアは、国主である私たち国民の利益を最優先しているとは言えない。

 これを知る者としては、聞く人無くとも、誰ぞ、術士・能士の目に触れられるために、「孤憤」をつづるわけである。

 

 果たしてそこに意義はあるのか?と訝しる人もいる。

 そこで、先日のエイプリルフール、ちょっとした有名人から、♡をもらったというフェイク画像を知人に見せてみた。騙された人は、一様に驚愕し、「こんなことも有るんだ。」と感激していた。たかが、♡一個で、形勢は大きく変わるということの証左と言えよう。

 諦める理由こそ無い。嘘が真になる日を信じて、投稿を続けよう。

 

 さて、本稿を手掛けるのには難儀した。「多様性を取り込む_その1」で語ったように、日本人はとにかく規格外のものを受け入れることが苦手だ。その残念な民族性について検証しなければ、いくら、奸臣の非を唱えても無駄なのである。

 中でも、本日取り上げえる「障害者との共生」については、深刻であると同時に慎重に取り上げるべき問題だ。何とかコンパクトにまとめ、その危機的状況をわかりやすく伝えられるよう努力したが、とても一稿にまとめることができないことに気づき、諦めるのに2ヶ月かかった。

 なお、言うまでもなく、私は、この問題の専門家ではない。もっと専門的に研究すれば、違う考えも見えてくるのかもしれないが、「孤憤」にそのようなものは必要ない。一般的な社会人が、曇りなきまなこで見る限り、そう見えるのであれば、それが現実なのだ。だから私は、今、自分が認識している問題点に絶対の自信を持っている。

 テーマの性質上、本来言葉を選ぶべき場面もあるかもしれないが、そのような欺瞞的な気遣いについて問題を提起するつもりなので、気分を害する表現があった場合は、正義を信じて語っているということでご容赦願いたい。

 

 それでは、本題に入ろう。

 言いたいことは山ほど有るのだが、特に私たちが意識しなければならないと思える問題点を以下の2点に絞った。

① 障害者雇用促進法に対する姿勢が、欺瞞に満ちている。

② 健常者は障害者の実態に対し、あまりに無理解である。

 このうち問題としてより深刻なのは②の方なのであるが、そこではかなり不適切な表現も使用せざるを得ないところもある。多少、インテリな一面も示しておいた方が、後続の主張に信憑性を持たせる可能性があるので、①を先に述べることにする。

 なお、私は、基本的に問題を提起するときは、自分なりの解決策を唱えるようにしている。双方の問題点を指摘した後、私なりに考えた画期的解決方法が1つあるので、それも楽しみにしてもらいたいと思う。

 

1 障害者雇用促進法

 この法律の歴史は意外に古く、1976年(昭和51年)に制定されている。男女雇用機会均等法より10年も早い。戦後直後に女性参政権が認められるなど、女性の権利の方がずっと早くに注目され、障害者の権利などという討論は後回しになっているものと考えていた。

 おそらく、多くの人の印象も同じかと思っている。

 なぜ、障害者雇用の方が先に論じられたのか?色々調べてみた。

 それぞれのムーブメントの流れを検討しているうちに見えてきたのは、「女性は、まあ無理に働かなくても、誰かの被扶養者になり得たが、障害者は、進んで支援し、扶養してもらえる可能性が圧倒的に低かったからだ。」という答えだった。

 身体障害2級の人の基礎年金は、月6万円だが、どこかの職につくと、1.25倍にしてもらえるらしい。6万円が7.5万円になっても、ジリ貧に変わりはないが、まあ働けば給料はもらえる。それでなんとか自活してくれと言うのが国の本音だ。

 2級と言うのは、特別級に該当し、両手か両足に著しい障害を持つレベルである。通勤すら厳しいハンデである。中には自分の可能性を信じて、「社会に出て働きたい。社会に負担をかけさせたくない。」と言う立派な考えの人もいるだろうが、十分な障害年金があれば、無理に働く必要はない。可能性なら、他の方法でも挑戦できる。

 借金大国だから、四肢の不自由な人を無理やり働かせているのか?

 日本人の国会議員はその程度にしか考えていないだろう。しかし、21世紀のSDGsを目指す国際社会では、そんな考えは文化の遅れた国の考え方だと言われるだろう。

 

 私の勤務先は大手と言えば大手に属するものであるが、障害者雇用促進法を決して真っ当に受けている様子は伺えない。つまり“歓迎”していない。前述の通り、障害者の自活推進のために国が定めた「割当制度」に止むを得ず従っているに過ぎない。

 ちゃんと進んだノウハウができている企業もあるかもしれないが、少なくとも私の勤務先は、かなりOUTだ。

 障害者を受け入れる場合には、「合理的配慮」というのが問題となるが、これは基本的に、障害のある人も働きやすい職場環境を整備するというもので、一番わかりやすいのは、「バリヤフリー」という設備だ。この点、私の勤務先は合格点だ。しかし、ハードというものは、お金を掛ければ整備できる。補助金も出るし。

 重症なのは、ソフト面、受け入れ側の意識の問題だ。

 まず、障害者を新規に雇用するとして、「ぜひ我が部署に配置してください。」と手を挙げる部署は無い。いつも残業続きで、猫の手も借りたいと言っていたとしてもだ。

 次に受け入れる時に行われるくだらない研修。e-ラーニングという、PowerPointの資料が配備され、所要時間1時間で把握しろという。多忙なみなさんは、10分ほどで斜め読みし、「なんだか新しい職務が増えたみたいだなあ。」程度に理解する。

 一応、障害者雇用促進法の導入理念なども紹介されているが、我が国の障害者雇用促進法の立法趣旨は、法第1条に掲げる通り、「障害者の職業人としての自立を促すもの」となっている。だから、「なんで無理に働かせるの?」と、健常者は考えるのだ。

 それから、障害者との接し方の注意事項。「①失敗を厳しく責めてはいけません。わかりやすく誤りを説明しましょう。②いきなり大声を出してはいけません。③ヒソヒソ話をして、相手に不愉快な勘違いをさせないように注意しましょう。・・・」。何なんだこれは?

 そんなことは、相手が障害者だろうと、健常者だろうとやったら行かんだろう?

 ところが、これを読んで、「めんどくせえことになったなぁ。」という奴がいる。これは、私の狭い交友関係の世界の話なのか、それが、「勤勉で、親切で、平和を愛する民族」と言われる日本人の本性なのかは、読者の方が、自分の周囲を見て判断してくれれば良いが、私はある程度確信を持っている。これが、日本人の本性であり、その類稀なポテンシャルを阻害している、基幹的な問題だと。

 ただ、障害者の職業人としての自立を図り、公的扶助の負担の軽減に繋げる考え方は、20世紀の世界においては常識であった。

 日本をはじめ多くの国で採用されている障害者雇用促進法では、必ずと言っていいほど、大企業などに対し、一定の雇用義務を課している(割当雇用制)。その法律の存在意義は、障害者たちの自活を推奨するものである。しかしそれは、特別級クラスの障害者にとっては、かなりの苦痛であり、受け入れる会社の方としても、ハード面の「合理的配慮」は整っても、前述したように、ソフト面では、面従腹背の闇が存在する。これは日本に限ったことではなかったろう。しかし、その原因は、「彼らを無理に働かせている。」という勘違いから生じている。「働けない人は、扶助してあげればいいじゃん。」という短絡的思考が、障害者との共生を阻んでいる。

 しかし、彼の国は、そんなことはおくびにも考えていなかった。

 

2 障害者雇用促進の本来の意義

 「アメリカ」という国は、本当に、考えが飛び抜けている。

 「障害者を積極的に雇用することは、お金のためでもなければ、国が法律で定めているからでもない。“多様性を取り込む”ためである。そして、すべての人々が、社会との繋がりを持つことが重要なのである。」

 アメリカの雇用促進法には、雇用義務はない。「障害があるからと言って差別するな!」と言う、素っ裸のロジックで全て決めている。四肢が不自由な人がある会社の理念に賛同して自分も是非ここで働きたいと言った。じゃあ雇ってやれ。「合理的配慮」を最大限行い、働けるようにしろ。障害が有る事を以ってのみを理由とする不採用は違法だ。

 竹を割ったような性格とはこういうのをいうのではなかろうか?

 

 アメリカ人が「差別」に対して極端にナーバスなのは、自分たちが黒人を差別し続けてきたことに対する反省だけではない。“多様性を取り込む”ことによる利益に気づき、差別はこれを最も阻害するものであると言う事を悟っているからである。

 障害者を採用することにより、バリヤフリーをはじめ、リハビリ、職業訓練、手の不自由な人でも扱えるオペレーションシステム、多くのネオハードが開発された。それらは、高齢者の暮らしを支えるツールにもなり得たし、一般の人により良い快適を提供できる商品の開発にもつながった。

 イギリスも、気付いたのか、1995年、割当雇用制を廃止し、障害者差別禁止法に切り替えた。

 21世紀に入り、この考え方はさらに加速していく。

 温情や正義感で差別をすることは良く無いと考えている人が多いようだが、最初から「どっちが上質だと誰が決めた?」から考えるべきなのである。

 完璧な人間など存在しない。どこかが欠落している。障害者の欠落点は、単に少数派が持つものに過ぎない。もしこの世界が、身長150センチ以下でないと暮らしにくい世界だったら、手が長いと邪魔になる世界だったら。いや、そんな世界は存在しない。なぜなら、私たちが、身長170〜180に合わせて、この世界を作っているから、肘から手のひらまでの長さに合うようにいろいろな器具を作っているから。

 そこへ、異端の障害者が登場し、この一般人にだけ便利な社会について、「住みにくい。働きにくい。」と言っている。除外するのは簡単だ。しかし、彼らの世界に合わせてみてはどうか?たまたま、一般的な人とは違う欠落点を持っているだけで、同じ人間だと考えてはどうか?その道を選んだとき、人はイノベーションを起こし始めた。

 

 しかし、ここに至るまでには、長い道のりが有った。単にハード面の改良だけでは障害者との共存は難しい。

 残念ながら、彼らの多くは幸福ではない。想像を絶する苦労を重ねてきていて、かなり健常者とは考え方にずれが生じている。その事を理解しておかないと、WinWinの関係にはなれない。

 そこで、「② 健常者は障害者の実態に対し、あまりに無理解である」が問題なってくるのだが、ちょうど字数も5000文字近くなってきたので、続きは次稿とする。

米軍志願兵募集ポスター (別名:アンクル・サム

 アメリカ人は、ある意味、「バカ」と言っても良いほどストレートだ。しかし彼らのヒロイズムには、欺瞞が感じられない。人によく見られたいから良い行いをするのではなく、それが「正しい」と思うから、それを行うのだ。反面、悪いことをする時も、半端無いところが残念なところだが。

 彼らの雇用促進制度はこう語る。障害者とて同じ人間、欲しているのは、義務的に行われる慈悲でも、腫れ物を触るような温情でもない。「I want you」ただその一言だ。

 スタジアムのゴミを集めて帰る日本人は素晴らしい。1分と遅れない電車を、列を作って並んで待つ姿、いずれも誇らしい光景だ。しかし、その裏で、一定の規格外のものを極端に避ける傾向が潜んでいるのは、半端なく悪いことをするアメリカ人よりずっとタチが悪いと思える。