孤憤

美しい「分散」が生む世界

 前回投稿は、Chapter2では、最重要事項と捉え、その草稿には随分時間がかかったのだが、その分、前のめりが強かったのか、久しぶりにスベッた感じになった。

 かなり投稿期間が空いた上にこんな話か?と言った反応に思えた。

 こういう独りよがりには、早い目に気づいて、読んでもらえる投稿をしないと、本当に伝えたいことが伝えられない。

 そこで、本稿では、やや趣を変えて、読み手に好奇心をもってもらえるような書き方にチャレンジしようと思う。

 

1 視聴率の実験

 その昔、東大の数学教授という肩書を持ちながら、無精髭を生やした小汚い風貌で一世を風靡したで秋山仁という数学者がいた。

 某国営放送で、子供達と数学の実験をして、数学の楽しさを伝える番組をしていた。

 その実験の中に、「どうして、ほんの一部の人の視聴率が、全体の視聴率と一致するのか?」というものがあった。

 実験では、プラスチックの玉を使っていたが、わかり易く、米を使ったことにしよう。

 米、50,000粒を用意した。重さは約1kg余り。そこから、紙コップで適当に掬ってみたところ、3,240粒掬えた。教授は、これを視聴者として、全て、赤いマジックで印をつけた。視聴率は、割り算して6.48%ということになる。

 インクが乾くのを待って、この視聴者粒を元の50,000粒に入れて混ぜさせた。そして彼は、忘れられない「重要」なことを言った。

 「何が大事かっていうと、ここでしっかり混ぜることなんだよ。いかに偏らないようにするかが大変なんだ。」

 子供達は、代わる代わる混ぜ役を代えて、教授がよろしいというまで、丹念に混ぜ続けた。

 そして、いよいよ、少数サンプルから視聴率を測る実験に入った。

 スプーンで、米を掬ったところ、最初は63粒ほど取れた。うち視聴者の印があったのは、4粒だった(サンプル視聴率は6.34%)は。これを三回ほど繰り返して、186粒掬ったところ、視聴者の印があったのは、12粒(サンプル視聴率は6.45%)になった。教授は、「もちろんサンプルを増やせば、この誤差はもっと縮まり、正確なものになるが、おそらく現実的には、このくらいのサンプル数で測っているのじゃないかなと思う。」と言う。

 サンプルの収集率は、186÷50,000なので、0.3%。日本の人口は、1億2000万人いるそうだが、世帯数は、5000万世帯程度らしい。0.3%というと、15万世帯。アナログ時代で、調査員が各戸訪問収集していたとしても、2~3000人いれば、1日で集計できただろう。今の技術を使えば、一分毎の視聴率がタイムリーに出てもおかしくない。

 

 参加した子供達は、少し手品でも見ているように不思議な面持ちをしていた。

 そこで秋山教授は、「この実験はね、君たちが一生懸命、視聴者の印のついた米が偏らないように、丁寧に丁寧に混ぜてくれたから成功したんだよ。少数のサンプルと、全体の確率が一致するには、視聴者がどの部分を掬っても同じ確率で掬われるよう、均等に散らばらなければならない。これを数学では「分散」と言って、とても重要視するんだよ。」

 そして、「視聴率のモニターを抽出する際は、性別はもちろん、年齢、職業、居住地、家族構成、年収などについて如何に偏らないようにするかが最も重要視されるんだ。」と説明した。このように、偏りのない分散を「美しい分散」と呼ぶとしよう。

 

2 集合知の奇跡

 「美しい分散」は、時折奇跡を起こす。

 色々な例が考えられるが、せっかくだからYouTubeで紹介されていた実話を例に取ろう。

 ある村の祭りで、牛一頭の重さを当てると言うゲームが開催された。参加者には、畜産従事者もいれば、会社員、子供も参加していた。その牛の重さは、1198ポンドであり、ある畜産従事者が、最も近似値の1205ポンドと投票していたため優勝した。

 さすが、プロは違うね。と感心させる催しのようだったが、後で、学者が興味を持って、投票者すべての回答を見せてもらった。300ポンドなどと言うあり得ないものもあれば、逆に3000ポンドという、まるでわかっちゃいない答えもたくさん有った。しかし、これらの平均値を正確に計算したところ、1197ポンド、つまり優勝者より近い回答になった。

 みんな優勝してお土産が欲しい。プロが混じっていても、もしかしたら、自分の予想の方が近いかもしれない。そうやって、無知な者も、ある程度わかる者も一生懸命考えた結果、見事に、答えの数値が均等に「分散」したわけである。その結果、その平均値は、専門家を上回った。これを、「集合知」という。分散が美しければ美しいほど、精度は上がると考えられている。

 人工知能(AI)の研究の中で、この集合知の奇跡を活用するものが有る。

 専門的で、正しい知識のみを詰め込んだAIよりも、極論・暴論・夢想といった、本来。正しい答えを導き出すには無用、もしくは邪魔になるはずの知識を蓄えたAIの方が、より最適な解を導き出すことがあるという、にわかには信じ難い研究結果も存在するらしい。

 

3 正規分布

 とてもシンプルなパチンコ台を作ってみよう。

 一番上は、釘が1本、2段目は2本、3段目は3本・・・・・いわゆるピラミッド状に組んでいくわけだ。そうだなあ、100段も作れば、私の話そうとしている現象がはっきり現れるかな。この時、底辺のスポットは、100本の間+両端で101ケースとなる。

 パチンコ玉を流すと、1段目の釘で、右と左に分かれる。右に行ったものは、2段目の右の方の釘に当たるのだが、さらに右に行く場合と、左に戻る場合とに分かれる。全部右を選んで、ピラミッドの底辺で右端のスポットに辿り着く玉が出る確率は、2の100乗分の1という天文学的数値だ。

 10万発〜20発くらい、球を転がした時、どのような形が現れるか?

 確率の低い量端の付近の球は少なく、真ん中に大きな山(ピーク)が形成される。

 これは、「正規分布」と言われる、自然界の鉄則で、確率上中心を境に左右対称となる。

 仮に、右を優秀・左を無能とし、優劣があるとしたら、極端に優秀な者と、極端に無能な者は、数は少ないが存在し、ごく平凡な者が、真ん中でピークを形成するだろう。

 大谷翔平や、羽生結弦藤井聡太くんたちは、まあ、右端の方にいるわけだ。

 その代わり、自然界の鉄則通り左右対称であるべきなら、彼らに匹敵する不遇を抱えた人が、少数だが必ず存在することになる。そう思うと、彼らの活躍も複雑な思いで見てしまいそうだ。

 しかし、救いは有る。正規分布のグラフは、裾野が広くなるほどピーク値が低くなる性質を持っている。つまり大谷選手が二刀流を見事にこなすことで、新たな多様性が生まれれば、その反対側にも可哀想な多様性が広がるわけだが、凡人の集中度は下がる。それは何に続くか?そう、選択肢の増えた世界へ人は分散され、美しい分散に近づいていくわけだ。

 

4 識路老馬

 韓非子五十五篇説林篇上「管仲の聖と隰朋の智とを以てするも、其の知らざる所に至りては、老馬と蟻とを師とするを難(はばか)らず。」世に名高い賢者といえども、道に迷った時は、自分さえも運んでくれない、役立たずの老馬に道を尋ね、喉が渇いても水辺が見つからない時は、稚拙・ひ弱な存在と言える蟻に水場へ案内してもらう。

 一見稚拙に見える考え、突拍子もない発想、夢想的な意見、から、多様なもしくは新しい視点の発見、共感と包括、それによる成長と学び、イノベーション等は、いずれも、多様性が均等に分散していることによって生まれる。平均的な凡人のみの集まり、または、有能な科学者と平民だけに偏った社会では実現しない。

 なぜなら、集合知が最適解を生み出す条件は、①均等な分散②十分な多様性③独立性④集約方法の合理性が挙げられるからである。

 ①②については、これまで話したとおりであるが、③の独立性は、非常に重要だ。実際、多様な価値観を持っている人々がたくさん住んでいる国で、集合知の効果が現れないのは、③の独立性を妨げる権力や情報操作が有るからだ。

 その点、日本は、権力からは守られているが、古くからの因習に縛られている点が残念だ。

 ④集約性については、集約する者が余計なことを考えず(つまり偏見を持たず、公平に)、ただカウンターを打ちさえすれば達成できる。

 韓非子のこの説話は、「重臣の話ばかり聞くのではなく、市井の庶民の声も聞け」と解されることが多いが、韓非子全体の記述には、「和氏の壁」や「善吏徳善」の説話に見られるように、奇人・変人・罪人であっても、その動向から学ぶことがあるとし、何かにつけ、間口を広げることを勧めている。

 法律を厳格に守らせる代わりに、かの法律とやらが、美しい分散と多様性を取り込んだ優れた集合知であることを求めている、と私は解釈している。

 

5  多様性を受け入れる≠多様性を取り込む   

 SDG‘sの現代社会では「多様性を受け入れるべき」と言う言葉がよく聞かれる。先日、ドラマ「不適切にも程がある」(通称:フテホド)では、マジョリティ絶対の理不尽な昭和と、マイノリティに気兼ねし過ぎて、やはり窮屈になっている令和とを「適切」に捉えていて、大変参考になった。

 世間の人々は、障害のある人や固定観念から外れた多様的思想を持つという、いわゆるマイノリティと共存することについて、双方が平等である事を前提にしているようであるが、それは幻想である。

 双方には超えられない段差が有るのに、妙な下駄を履かせて、不自然な対等を幻出させて、「共存」していると言うから、なんとなくしっくりこない社会になってしまうのだ。

 「受け入れる」などという上から目線の共存を考えているうちは、遠からず双方は不幸になる。“賢者は老馬や蟻に教わることも恥じない。”マイノリティが、特定の職域や地域、コミュニティに偏らないように、なるべく、この社会の至る所に満遍なく存在できるよう、「合理的配慮」を行って彼らの多様性を「取り込む」事で、「美しい分散」が発現し、未来に最適解を示してくれる可能性が出てくるわけだ。

クロード・モネ「エトルタ」

 クロード・モネ展を見てきた。平日に休暇をとって見に行ったのに、1時間半以上待ちという大行列だった。流石に70点全てモネという大盤振る舞いだけ有ってのことだろうか?私は、混雑する美術展は苦手だ。時折、スポーツファンの中に、ニワカファンをよろしく思わない人たちがいるように、私も、暗黙のルールを理解せず、絵もしっかり見なければ、自分の後ろもしっかり見ない人混みで鑑賞していると、ため息ばかりになってしまう。

 しかもこの日私は迂闊にも、お気に入りのサングラスを並んでいる途中で落としてしまった。少し値は張ったが、一目惚れで買ったブランドものだった。

 しかし、ここは日本、しかも、紳士淑女の集う美術館、一応「サングラスを落としてしまいました。」と声を上げると、案の定、行列は、団体行動のように頭を下げ、足元を見て探してくれた。しかし、残念ながら、拾い主はどこにも届けてくれなかった。

 もし、拾得物を横領するような者が居るとすれば、この空間では絶対的な異端者である。

 気分を害した私は、一旦昼食を取り、数時間後に戻ることにした。

 その間にこの原稿を書いていて、ふと自嘲した。「“盗人もモネを観る。”それも美しい多様性の分散なのか?」と。もし、モネを観て、楽しめたというのなら、あのサングラスはくれてやろうと思った。

 戻ってからも、少し待ち時間はあったが、館内に入ると、不思議と皆がハイソサエティな観客に見えた。数時間で生まれた「寛容」の心のせいか、物腰静かに、常に後ろに気を配る、お行儀の良さにばかり目が行き、大変気持ちよく鑑賞できた。この日のモネの「光」は、いつにも増して、美しかった。

多様性を取り込む_その2

 韓非子五十五篇の11「孤憤」とは、法術の士が重臣に妨害されて才能をあらわせないことの憤りを言い、韓非の自著とされる重要な篇である。

 ここに、「主の利は労有りて爵禄するに在るも、臣の利は功無くして富貴なるに在り。」との記述が有るが、まさしく、今、我が国の国会議員を含む行政機関、およびマスメディアは、国主である私たち国民の利益を最優先しているとは言えない。

 これを知る者としては、聞く人無くとも、誰ぞ、術士・能士の目に触れられるために、「孤憤」をつづるわけである。

 

 果たしてそこに意義はあるのか?と訝しる人もいる。

 そこで、先日のエイプリルフール、ちょっとした有名人から、♡をもらったというフェイク画像を知人に見せてみた。騙された人は、一様に驚愕し、「こんなことも有るんだ。」と感激していた。たかが、♡一個で、形勢は大きく変わるということの証左と言えよう。

 諦める理由こそ無い。嘘が真になる日を信じて、投稿を続けよう。

 

 さて、本稿を手掛けるのには難儀した。「多様性を取り込む_その1」で語ったように、日本人はとにかく規格外のものを受け入れることが苦手だ。その残念な民族性について検証しなければ、いくら、奸臣の非を唱えても無駄なのである。

 中でも、本日取り上げえる「障害者との共生」については、深刻であると同時に慎重に取り上げるべき問題だ。何とかコンパクトにまとめ、その危機的状況をわかりやすく伝えられるよう努力したが、とても一稿にまとめることができないことに気づき、諦めるのに2ヶ月かかった。

 なお、言うまでもなく、私は、この問題の専門家ではない。もっと専門的に研究すれば、違う考えも見えてくるのかもしれないが、「孤憤」にそのようなものは必要ない。一般的な社会人が、曇りなきまなこで見る限り、そう見えるのであれば、それが現実なのだ。だから私は、今、自分が認識している問題点に絶対の自信を持っている。

 テーマの性質上、本来言葉を選ぶべき場面もあるかもしれないが、そのような欺瞞的な気遣いについて問題を提起するつもりなので、気分を害する表現があった場合は、正義を信じて語っているということでご容赦願いたい。

 

 それでは、本題に入ろう。

 言いたいことは山ほど有るのだが、特に私たちが意識しなければならないと思える問題点を以下の2点に絞った。

① 障害者雇用促進法に対する姿勢が、欺瞞に満ちている。

② 健常者は障害者の実態に対し、あまりに無理解である。

 このうち問題としてより深刻なのは②の方なのであるが、そこではかなり不適切な表現も使用せざるを得ないところもある。多少、インテリな一面も示しておいた方が、後続の主張に信憑性を持たせる可能性があるので、①を先に述べることにする。

 なお、私は、基本的に問題を提起するときは、自分なりの解決策を唱えるようにしている。双方の問題点を指摘した後、私なりに考えた画期的解決方法が1つあるので、それも楽しみにしてもらいたいと思う。

 

1 障害者雇用促進法

 この法律の歴史は意外に古く、1976年(昭和51年)に制定されている。男女雇用機会均等法より10年も早い。戦後直後に女性参政権が認められるなど、女性の権利の方がずっと早くに注目され、障害者の権利などという討論は後回しになっているものと考えていた。

 おそらく、多くの人の印象も同じかと思っている。

 なぜ、障害者雇用の方が先に論じられたのか?色々調べてみた。

 それぞれのムーブメントの流れを検討しているうちに見えてきたのは、「女性は、まあ無理に働かなくても、誰かの被扶養者になり得たが、障害者は、進んで支援し、扶養してもらえる可能性が圧倒的に低かったからだ。」という答えだった。

 身体障害2級の人の基礎年金は、月6万円だが、どこかの職につくと、1.25倍にしてもらえるらしい。6万円が7.5万円になっても、ジリ貧に変わりはないが、まあ働けば給料はもらえる。それでなんとか自活してくれと言うのが国の本音だ。

 2級と言うのは、特別級に該当し、両手か両足に著しい障害を持つレベルである。通勤すら厳しいハンデである。中には自分の可能性を信じて、「社会に出て働きたい。社会に負担をかけさせたくない。」と言う立派な考えの人もいるだろうが、十分な障害年金があれば、無理に働く必要はない。可能性なら、他の方法でも挑戦できる。

 借金大国だから、四肢の不自由な人を無理やり働かせているのか?

 日本人の国会議員はその程度にしか考えていないだろう。しかし、21世紀のSDGsを目指す国際社会では、そんな考えは文化の遅れた国の考え方だと言われるだろう。

 

 私の勤務先は大手と言えば大手に属するものであるが、障害者雇用促進法を決して真っ当に受けている様子は伺えない。つまり“歓迎”していない。前述の通り、障害者の自活推進のために国が定めた「割当制度」に止むを得ず従っているに過ぎない。

 ちゃんと進んだノウハウができている企業もあるかもしれないが、少なくとも私の勤務先は、かなりOUTだ。

 障害者を受け入れる場合には、「合理的配慮」というのが問題となるが、これは基本的に、障害のある人も働きやすい職場環境を整備するというもので、一番わかりやすいのは、「バリヤフリー」という設備だ。この点、私の勤務先は合格点だ。しかし、ハードというものは、お金を掛ければ整備できる。補助金も出るし。

 重症なのは、ソフト面、受け入れ側の意識の問題だ。

 まず、障害者を新規に雇用するとして、「ぜひ我が部署に配置してください。」と手を挙げる部署は無い。いつも残業続きで、猫の手も借りたいと言っていたとしてもだ。

 次に受け入れる時に行われるくだらない研修。e-ラーニングという、PowerPointの資料が配備され、所要時間1時間で把握しろという。多忙なみなさんは、10分ほどで斜め読みし、「なんだか新しい職務が増えたみたいだなあ。」程度に理解する。

 一応、障害者雇用促進法の導入理念なども紹介されているが、我が国の障害者雇用促進法の立法趣旨は、法第1条に掲げる通り、「障害者の職業人としての自立を促すもの」となっている。だから、「なんで無理に働かせるの?」と、健常者は考えるのだ。

 それから、障害者との接し方の注意事項。「①失敗を厳しく責めてはいけません。わかりやすく誤りを説明しましょう。②いきなり大声を出してはいけません。③ヒソヒソ話をして、相手に不愉快な勘違いをさせないように注意しましょう。・・・」。何なんだこれは?

 そんなことは、相手が障害者だろうと、健常者だろうとやったら行かんだろう?

 ところが、これを読んで、「めんどくせえことになったなぁ。」という奴がいる。これは、私の狭い交友関係の世界の話なのか、それが、「勤勉で、親切で、平和を愛する民族」と言われる日本人の本性なのかは、読者の方が、自分の周囲を見て判断してくれれば良いが、私はある程度確信を持っている。これが、日本人の本性であり、その類稀なポテンシャルを阻害している、基幹的な問題だと。

 ただ、障害者の職業人としての自立を図り、公的扶助の負担の軽減に繋げる考え方は、20世紀の世界においては常識であった。

 日本をはじめ多くの国で採用されている障害者雇用促進法では、必ずと言っていいほど、大企業などに対し、一定の雇用義務を課している(割当雇用制)。その法律の存在意義は、障害者たちの自活を推奨するものである。しかしそれは、特別級クラスの障害者にとっては、かなりの苦痛であり、受け入れる会社の方としても、ハード面の「合理的配慮」は整っても、前述したように、ソフト面では、面従腹背の闇が存在する。これは日本に限ったことではなかったろう。しかし、その原因は、「彼らを無理に働かせている。」という勘違いから生じている。「働けない人は、扶助してあげればいいじゃん。」という短絡的思考が、障害者との共生を阻んでいる。

 しかし、彼の国は、そんなことはおくびにも考えていなかった。

 

2 障害者雇用促進の本来の意義

 「アメリカ」という国は、本当に、考えが飛び抜けている。

 「障害者を積極的に雇用することは、お金のためでもなければ、国が法律で定めているからでもない。“多様性を取り込む”ためである。そして、すべての人々が、社会との繋がりを持つことが重要なのである。」

 アメリカの雇用促進法には、雇用義務はない。「障害があるからと言って差別するな!」と言う、素っ裸のロジックで全て決めている。四肢が不自由な人がある会社の理念に賛同して自分も是非ここで働きたいと言った。じゃあ雇ってやれ。「合理的配慮」を最大限行い、働けるようにしろ。障害が有る事を以ってのみを理由とする不採用は違法だ。

 竹を割ったような性格とはこういうのをいうのではなかろうか?

 

 アメリカ人が「差別」に対して極端にナーバスなのは、自分たちが黒人を差別し続けてきたことに対する反省だけではない。“多様性を取り込む”ことによる利益に気づき、差別はこれを最も阻害するものであると言う事を悟っているからである。

 障害者を採用することにより、バリヤフリーをはじめ、リハビリ、職業訓練、手の不自由な人でも扱えるオペレーションシステム、多くのネオハードが開発された。それらは、高齢者の暮らしを支えるツールにもなり得たし、一般の人により良い快適を提供できる商品の開発にもつながった。

 イギリスも、気付いたのか、1995年、割当雇用制を廃止し、障害者差別禁止法に切り替えた。

 21世紀に入り、この考え方はさらに加速していく。

 温情や正義感で差別をすることは良く無いと考えている人が多いようだが、最初から「どっちが上質だと誰が決めた?」から考えるべきなのである。

 完璧な人間など存在しない。どこかが欠落している。障害者の欠落点は、単に少数派が持つものに過ぎない。もしこの世界が、身長150センチ以下でないと暮らしにくい世界だったら、手が長いと邪魔になる世界だったら。いや、そんな世界は存在しない。なぜなら、私たちが、身長170〜180に合わせて、この世界を作っているから、肘から手のひらまでの長さに合うようにいろいろな器具を作っているから。

 そこへ、異端の障害者が登場し、この一般人にだけ便利な社会について、「住みにくい。働きにくい。」と言っている。除外するのは簡単だ。しかし、彼らの世界に合わせてみてはどうか?たまたま、一般的な人とは違う欠落点を持っているだけで、同じ人間だと考えてはどうか?その道を選んだとき、人はイノベーションを起こし始めた。

 

 しかし、ここに至るまでには、長い道のりが有った。単にハード面の改良だけでは障害者との共存は難しい。

 残念ながら、彼らの多くは幸福ではない。想像を絶する苦労を重ねてきていて、かなり健常者とは考え方にずれが生じている。その事を理解しておかないと、WinWinの関係にはなれない。

 そこで、「② 健常者は障害者の実態に対し、あまりに無理解である」が問題なってくるのだが、ちょうど字数も5000文字近くなってきたので、続きは次稿とする。

米軍志願兵募集ポスター (別名:アンクル・サム

 アメリカ人は、ある意味、「バカ」と言っても良いほどストレートだ。しかし彼らのヒロイズムには、欺瞞が感じられない。人によく見られたいから良い行いをするのではなく、それが「正しい」と思うから、それを行うのだ。反面、悪いことをする時も、半端無いところが残念なところだが。

 彼らの雇用促進制度はこう語る。障害者とて同じ人間、欲しているのは、義務的に行われる慈悲でも、腫れ物を触るような温情でもない。「I want you」ただその一言だ。

 スタジアムのゴミを集めて帰る日本人は素晴らしい。1分と遅れない電車を、列を作って並んで待つ姿、いずれも誇らしい光景だ。しかし、その裏で、一定の規格外のものを極端に避ける傾向が潜んでいるのは、半端なく悪いことをするアメリカ人よりずっとタチが悪いと思える。

死刑にすればいいってもんじゃないんじゃないの?

1 要因
 京アニ放火事件の青葉被告の死刑判決が出た。当然の結果であろう。
 彼のように既に人生が破綻し、自分の命がさほど重要でなくなったものにとって「死刑」と言う刑罰は、どうやら凶悪犯罪を抑制する効力を失っていることを実感する。
 池田小学校の児童大量殺人事件以来、このような人生破綻者による道づれ大量殺人が続いている。彼らにとって、死刑はむしろ救いであるかのようである。
 そうなると、「死刑判決」や、それが当然としか思えない裁判に、何の意義があるのだろう、という疑問にぶち当たるわけだ。
 しかし、全身大火傷で近畿大学に運ばれてきた瀕死の状態の青葉被告を、懸命な救命措置で蘇生させた鳥取大学の上田医師は言っている。「目の前で死にかけている人間を救うのが職務であるが、それもさることながら、このような残虐非道で悲惨な犯罪が、彼だけの問題で起こるとは思えない。青葉被告が裁判に立つことによって、そのいくつかの要因が明らかになることを願った。」と。
 実際、裁判の過程の中で青葉被告の通常とはかけ離れた、かなり悲惨な半生が語られている。それに比べ、大阪市北区で起きた精神科医院放火事件(被疑者を含め死者27名)については、被疑者が死んでしまったため、被疑者の動機はほとんど明らかになっていない。
 上田医師の指摘するように、青葉被告の場合は、被告自身の問題だけでなく、それを取り巻く社会的な問題がある可能性が垣間見える。
 しかし、一審の審議だけでは、垣間見えるに留まっている感が否めない。
 「親が離婚して、貧困の中、虐待され、まともに進学できなかったから、社会に適用できず精神を病んだ。」という点が示されたに留まっていて、上田医師が言うような社会的背景や問題の考察は薄いまま進んでいる。
 弁護側の戦略が、ここから妄想癖に繋げるためであろう。

 以前このChapter2の冒頭で語っているが、日本と言う国は一見豊かな先進国のようであるが、その裏ではその強烈な勤勉さと言う国民性を利用して、何十年もポテンシャルに見合った対価を支払わず、搾取している現状が続いている。そのフラストレーションは例えばいじめであったり、パワハラであったり、ネットにおける誹謗中傷といった形で、他人を傷つける行動に現れている。
 子供の虐待もその一つだ。ちょっと昔は、DVといえば、妻に対するものが多かったように思うが、21世紀に入って、子どもへの虐待が急増している。妻は、逃げたり、訴えたりすることができるから面倒なのかな?卑劣極まりない。
 しかし、そのような逆境の中でも子供と言うものは自分で人間になっていくわけであり、大人になっていくわけである。多少心に傷は持っているものの、何とか社会に順応しようとするものである。青葉被告が定時制の高校を皆勤で卒業しているのは、驚くべき事実だ。
 彼に、もう少し、何か良い出会いがあれば、何も起こっていなかったかもしれない。
 ただ虐待を受けて育った者の幸福への道は険しい。
 
 「日本人は、勤勉で親切だ。」
 多くの一般人は、勤勉な親に育てられ、それが当たり前の社会で育つ。そのため、怠けたり、手抜きをしたりすることが逆にできない。財布を拾って届けない人が不思議に見えるように、さしたる用も無いのに、気分が悪いと言って早退する人間を認めることができない。どんなに仕事ができても、いつも遅刻ギリギリに来たり、うとうとと居眠りをしたりしている人間も許せない。
 しかし、理不尽な虐待を受け、まともな情緒と感性を受け取れなかった者にとっては、その当たり前は、残酷過ぎるハードルとなる。
 虐待の過去を話そうとしない彼らは、身障者にもなりたがらず、ヘルプマークも持たない。だから、その心情を汲み取れと言われても難しいことかもしれない。また、本当に怠惰でだらしない人間と区別する事も難しい。しかし、別に不真面目というわけではないが、どこか常識についていけていない様に見える者は、自分たちとは違う家庭環境からのサバイバーかもしれないという意識は必要かも。
 かつて、受験戦争の過熱ぶりから、「落ちこぼれ」が問題となり、ゆとりの重要性が主張された。ゆとり教育を悪く言う人もいるが、多くの落ちこぼれが救われた。
 今は生真面目で潔癖な人々も、実は薄々気づいているはずだ。過酷な搾取の中で、欲求不満が深層心理で膨らんでいて、ゆとりを失いつつある自分に。
 今はたまたま、安全運転ができているだけ。離婚したり、失職したり一たびバランスが崩れれば、窮屈すぎる生き方をしている自分に気づき、青葉被告が感じていたハードルの虚しさに気づくだろう。
 青葉被告ほどではないが、日本において勤勉と言われる人々も、いつでも、八つ当たり的な犯罪を犯す可能性を秘めている。
 この裁判によって、そういう、一見幸福な先進国のゆとりの無さを皆が考えるきっかけとなるのであれば、上田医師の功績は甚大である。

2 結果
 判決の文言の中に殊更にその死者数が前代未聞の「36人」と何度も唱えているが、青葉被告は、果たして、計画的に36人を殺したのであろうか?確かに「皆殺しにしてやる。」という意図はあったとしても、例えば、戦場において、ある施設に出入りする30名以上の人間を、一人残さず殺戮または捕縛しなければいけない作戦があったとして、かつそれを一人で成功させなければいけないと命じられた時、あなたにその作戦を立案することができるだろうか?
 青葉被告は、あの建物は吹き抜けになっているから、上層階までの火の回り、煙の充満が早いと考えていただろうか?屋上に出る扉は普段施錠されていて、緊急時にも開かないと知っていただろうか?ガソリンというものに火をつけた経験の有る者は少ない。その延焼力の強さをどの程度知っていたのか?実験はしたのか?確かに一番逃げやすい玄関フロントに火を放ったのは、残虐ではあるが、実は裏口の方がデカかったり、スプリンクラーが作動したりして、ただの間抜けになっていた可能性は十分有るわけだ。
 これに比べ、大阪市北区精神科医院に放火した被疑者は、院内の見取り図をよく理解した上で、非常階段に出る扉をテープで目張りしたり、消火栓の場所が分かりにくくなるようにカモフラージュしたり、かなり周到な、殲滅計略をたてられている。

 この辺りについて裁判では全く触れられていない。それを以って前代未聞と言い切るのは、いささか法曹にあるまじきと考える。
 
 このように被害が甚大化した要因を青葉被告の計画になかったものとすることで、彼の罪を軽減すると言う考えは毛頭無い。軽減したところで、彼が死刑になる事は変わりない。ただ、被害が甚大化した要因については、細かく検証し、今後このような残虐な放火犯罪が起きても、被害を最小化する防護策が検討されるべきなのである。
 例えば、私の勤務先では、以前から非常口や屋上の扉は「緊急時以外開閉禁止」と言う簡単な封印がしてあり、緊急時にはその紙を破るだけで脱出が可能である。京アニにおいても屋上の扉がこのように臨機応変して対応できていたら、十数人の命が救われたと考えられる。
 さて、現在この事実を多くの人が報道で知っているのであるが、皆さんの企業においてこのような発想の転換や緊急脱出口の工夫、またおかしな放火魔が突然現れた場合の対応等について話し合われたことがあるだろうか?
 そのような影響を考えると、殊更に犠牲者の人数の多さだけを強調し、そのように被害が甚大化した理由を議題に上げようとしない今回の地方裁判所は阿呆だ。

 それから、ガソリンの管理についても考え直すべきだろう。アメリカの銃乱射事件より簡単に多数を殺傷する、とんでもなく危険な代物だ。
 しかし、今でも、セルフG Sでは、簡単にポリタンクにガソリンを入れることができる。
 「車のガソリンタンク以外には入れないでください。(防犯カメラ作動中)」の一言も書いていていれば、かなり抑止効果があると思うのだが。これも、本裁判で、被害が甚大化した要因についてしっかり議論しなかったことが問題である。
 弁護人は、本人の妄想などどうでも良いから、計画的に殺した人数は何人だったかについて争えば良かったのだ。

3 控訴
 多くの遺族が、弁護人による控訴について難色を示している。聞くところによると、青葉被告本人も控訴には消極的だとか。
 確かに、遺族の言うように、「機械的な控訴ならやめてほしい。」という指摘は正しい。
 正直、今の弁護士での控訴審は無駄だろう。
 ただ、私が犠牲者か、遺族の一人であるとしたら、控訴審は行なってほしい。
 一つは、青葉被告がまだ妄想から冷めていない事。
 法廷で、「京アニがアイディアを盗むことは問題にしないのか?」と発言している。
 ちゃんと、彼の出展作品を精査し、一体どこが盗用されているのか?はっきりさせてやるべきだ。たとえ似たような点があっても、それが盗用であることを立証することは難しい。もし、彼に十分な資金があり、裁判に持ち込んでいたら果たして、盗用は認められたか?彼の脳髄までわかるように、徹底的に説明してあげれば良い。その上で、「私は、裁判では無実となる人を殺したんだ。」と言うことを、死刑の日までに1日1万回唱えされば良い。
 次に、1項で挙げたように、この事件は、青葉被告だけの問題では無いことをよく考えるべきである。後を絶たない、道連れ放火の連鎖。彼らは、この事件を手本にそれを起こしている。
 コロナ禍が過ぎ、景気を取り戻し始め、明るく平和な日本が戻って来つつあるが、一部にゆとりのない人間がいる。障害者問題を考えるように、彼らのことを考える必要がある。
 少子・高齢化、国の借金、周辺国の情勢不安。問題は山積だが、健全でゆとりのある国民が多ければ多いほど、内政も外交もうまくいくものだ。少なくとも日本という国はそう言う国であり、日本人というのはそういう国民だ。まずは、働きに見合った賃金を獲得し、不満が無く、ゆとりのある社会を築いていけば、悲惨な生い立ちを持つ者を救う手立ても増えよう。
 京アニ事件について、「自分たちには理解のできない気狂いが、訳のわからない事をほざいて、たくさんの人を殺した。」としか見られないとしたら、亡くなった36人は浮かばれない。もっと深く、もっと多角的にこの問題を考察するために、私は控訴審を望む。

ドラクロア「サルダナパールの死」

 18世紀に入り、絵画は、それまで主流であった理性的・合理的で「完全な美」を求める古典的教条主義と呼ばれる束縛から放たれようと、事実を多少粉飾したり、場合によっては、あからさまに創造したりする事によって、より、叙情的で、感情に訴える表現を求め始める。これをロマン主義という。絵画が、被写体に忠実という限界から逃れ始めた最初の胎動である。
 サルダナパールは紀元前、アッシリアに君臨した暴君で、その実権が奪われる時、道連れに女官を惨殺する。その悲劇は、バイロンの戯曲「サルダナパロス」として、当時流行していた。
 いつの時代も、自分勝手に道連れ殺人を犯す者は居るようだ。いや、本当、死にたいなら一人で死んでくれよ。と願いたくなるが、死を覚悟した者は、他人の命も軽視するということだ。
 ところで、この絵画は、見ていると気分が悪くなるほど、恐ろしい場面を、克明に描いているのだが、200年経った今でも、ドラクロワの代表作の一つとして挙げられ、またロマン主義の象徴としても挙げられる。それだけ、人の心を震わせて来たのだ。そして、このようなグロテスクな絵に心を震わされるような人々は、いつでも、サルダナパールになり得るわけで、そのような情緒が、200年も支持されてきたということだ。

韓非子を非情と言う勿れ

1 非情の思想家

 中国の思想家、韓非子は何かにつけて「非情の思想家」と呼ばれるが、それは何故か?

 一般的に言われることは、彼は人を信用せず、冷酷で厳格な法律を以って国を統治する強権的な法治主義を唱えたからであると言われている。

 しかし、私は彼の韓非子55篇を全て把握しているわけではないが、少なくとも君主に対し冷酷さを求めたと言う記述は見当たらない。

 兵法家孫武孫子)が、ある君主に「女でも立派な兵隊にできるか」と問われ、宮中の女官を練兵させられた際、真面目にやらない女官たちに対し、「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪、命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官(隊長)の罪なり」と言って、隊長を務めていた君主の寵姫を処刑する。すると、女官たちは、その後、孫武の号令に必死で従ったと言うエピソードは有名だ。

 しかし、韓非子55篇に、何百編も有る説話の中に、このような冷酷な話は一度も出てこない。逆に、部下に裏切られる君主の末路については、やたらと脅すような残酷な説話をいくつも取り上げている。

 わかるだろうか?両者の違い。

 孫武は、法を守らせるためなら、このくらい冷酷であるべきだと説き、韓非子は、法を守らせないと、あなたがこのような悲惨な末路を辿りますよ。と言っているのだ。

 どっちが非情な思想家だっちゅうの!

 まあ、孫武が扱うのは兵法だから、苛烈で当然とも言えるが、孔子孟子が言っている言葉でも、非情な表現や、冷酷な判断を促す局面が無いと言えるだろうか?私は、こちらの方にはあまり詳しくないので、確証の有る具体的な例は挙げられないが、有名人だけにいろいろ悪い方のエピソードも聞いている。

 

 まあ、他人と比較する必要も本当は無い。

 韓非子55篇を見る限り、彼は一度も冷酷さを求めていない。また、強権力で強引に従わせろとも言っていない。

 彼が求めたのは、法の厳格なる適用である。

 法を施行するにおいて、一つの重要な観点がある。

 「これをやったら、この罰を与える。これができたら、この賞を与える。」と定めたら、必ずその通りにこれを実行することである。罪人が知り合いだったり、気に入らなかったり、で答えを変えてはいけない。つまり、法の適用において、決して感情を介入させてはいけない。ということである。だから、そこには「非情」が存在する。

 人がルールを守るのは、答えが決まっているからである。これを「法治における予測可能性」という。これが守られなければ、「不公平」が生じる。すると、法治は瓦解する。

 従って、この「非情」は、法治の根幹に関わる要素なのであり、国家国民の公平のための「非情」なのである。

 それでも、彼を非情の思想家と呼ぶべきか。

 

2 法治主義の欠陥

 そもそも、韓非子は、当時主流となっていた、孔子が唱えた「徳治主義」、すなわち、君主が率先して、正しい道を示し、道徳を奨励すれば、国は安泰するという考えに対するアンチテーゼとして、「法治主義」を唱えた。

 孔子の言う道徳などと言う、時代や慣習によって変わる曖昧なものを主柱に据えることと、その道徳を全ての国民が実践しなければいけないと言う、とんでもなく窮屈な社会に、どれだけの人間が賛同できると言うのだ。というのが簡単な反論だ。

 では、法律にがんじがらめにされる社会は窮屈では無いのか?

 

 韓非子55篇に記された法規則及び制定方法は、君主が如何に臣下を支配するかという点に集中している。どう言う部下が悪さをするか?どうやったらそう言う部下を見つけられるか?君主はそう言う部下を生み出さないためにどうあるべきか?という話が大半を占めている。

 直接、庶民について論じているところが有るとすれば、法を定めるときは、軽罪ほど厳しく取り締まれ(水は形懦にして、溺るる者多し)、とか、明確な利益が示されていれば、庶民でも勇敢となる(利の在る所は、皆な賁諸と為る)と語っている点くらいである。

 すなわち、韓非子が求めた法とは、国民をがんじがらめにするものではなく、権力者を統制するものだったわけである。決して、国民にとって、窮屈な社会を望んだわけでは無い。

 

 しかし、韓非子の理論を受け継いだ秦の始皇帝は、その便利さにハマってしまいこれを濫用してしまう。この辺りは、以前「韓非子2000年の悲運」でも記したが、今回はこの点について、別の視点で見てみるとする。

 

 実は、法治主義には、大きな欠陥が有る

 法はあくまで社会全体を統制するための制度であり、個々の行動や価値観を完全に規定することはできない。従って、法が及ばない範囲での個人の道徳的な選択や行動は、どうしても存在する。始皇帝は、そのような人身の個々の事情、慣習、道徳心まで法律で規制しようとした。つまりそれが秦の一番の過ちと言えよう。

 例えば、病気の肉親を抱えた家庭であっても、法は厳格に適用してこそ公正が保たれるとし、「法令通りの税を納めなければ、万里の長城の現場に行ってもらい、骨と皮になるまで働いてもらう。」と命じたら、本人はもちろん周囲の人々も納得しないだろう。

 法は本来その適用が厳格であればあるほど、予測可能性を保持し、公正を保つ訳であるが、それは統治者側にとって重要な要素であって、庶民には、それぞれ公正や平等より、孝行や友情・信頼など、道徳的に重要なものがあり、その点どうしても官民に意識のずれが生じる。

 「法治主義」の不可欠な要素である「非情」は、庶民的には、不道徳に類するものである。如何に、国の統治に欠かせないものと言われても、庶民にはもともと受け入れ難いのだ。

 ましてや、秦の二代目の時期は、中央権力の横暴が蔓延り、法治の利点である、公正・平等も失われた。まさにただの非常で不道徳な統治者だ。誰も従うまい。

 

3 修正法治主義

 韓非子は、法治主義のこの欠陥を理解していた。

 前述の通り、韓非子55篇の記述は、行政機構の統制に重きが置かれている。庶民の直接統制についての記述は少ない。

 韓非子の特徴的な統制術の中に、まず、相手の事情を聞き、その者が叶えられる目標を申告させ、それが叶えばこれを賞するとした(形名参同)というものが有る。もし、庶民に対して何らかの法を定める必要が生じていたら、彼は、庶民に対しても同じことを求め、同じ賞罰を与えただろう。

 しかし、その記述はない。なぜか?

 

 「善吏徳樹」という四字熟語にもなっている説話がある。韓非子が、行政官とはどうあるべきかを語った有名な説話である。前巻で紹介したことがあるし、最近では、漫画のキングダムのおかげで、韓非子もかなり有名になってきたようなので、簡単に検索で出てくるので、詳細は省略する。ただ、一時期私が座右の銘にしていたほど感動的な説話なので、一読していただけると嬉しい。

 この説話では、行政官の誠実さが、罪人の心を動かし、善人に変貌させるのだが、この「善吏徳樹」という言葉自体は、実は孔子の言葉の引用である。

 孔子法治主義についてどう考えていたのか、文献上の判断は難しいらしいが、「法治では、道徳は育たない。」という法治主義の欠陥を看破していたという説がある。しかし、孔子の理論の大原則は、権力側の姿勢が道徳的であれば、支配される側にも徳が及ぶというものであったから、法治主義も運用方法によっては、道徳を養うこともできると考えていたかもしれない。上記のような言葉を残しているのがその証左と言えよう。

 だから、韓非子も、支配する側の役人をしっかり統率すれば、庶民を直接統率する必要はないと考えていた可能性が高い。

 しかし、残念ながら、「孔子は庶民の道徳性を楽観視し過ぎている」と説いた韓非子は、君主の道徳性を楽観視し過ぎてしまっていたようだ。

 

 この法治主義の欠陥を補いつつ、その有用性を最大利用したのが、秦を引き継いだ漢帝国である。これも以前、「韓非子2000年の悲運」で紹介しているが、その時の表現では少しわかりにくいので、ここではっきりいうと。漢帝国は、法治主義の弱点である「道徳」を儒教というわかりやすい規範で補い、行政官には厳格に法を適用した。この見事なハイブリットが400年の治世を実現する。

 

4 自発的正義に補完された法治主義

 しかし、この体制にも問題はあった。世の善悪は全て儒教によって定められるわけで、信仰・信条の自由が無かった。

 第三者が規定したルールである限り、その厳格なルール適用は「非情」と捉えられるのはやむを得ないわけであり、自発的な善である「道徳」を規範する何らかの補完を行わない限り「法治主義は非情」という謗りを免れない。

 このジレンマの解決は困難を極める。韓非子は、この難問を、庶民を取り締まる行政官を厳しく統率することで回避しようとしたようだが、法は難しく、官民の距離を詰めるのには、双方がかなり進歩する必要が有るようである。少なくとも市民革命が起きた、近代以降の民度が必要だろうし、行政官にも道徳の規範となるくらいの高度な資質が要求される。非常に困難な思想である事は間違いない。

 近年、多数の国々で法治主義が採用されているが、まだまだ民衆の教育のレベルは低く、行政官の資質も低いため、その適用が強権的であったり、道徳の方は宗教などに委ねられたりするケースが大半である。だから、互いの正義が食い違い、国境を外すことができず、争いも絶えない。

 

 しかし、一国だけ、宗教に頼らず、強権力も振るわず、厳格な法治主義と高い道徳観を併存させている国が存在する。現在その成功の秘訣、あるいは起源となるものの研究中である。

 後日、本稿の続稿として投稿する予定である。

ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生

 ギリシャ神話におけるヴィーナス誕生の逸話は非常に乱暴で、ギリシャ神話特有のエロスをまとっていた。そのため、ヴィーナスの誕生と言うものは、ボッチチェリが描いたような強烈な神格化されたものではなく、19世紀に書かれたアレクサンドル・カパネルの「ヴィーナスの誕生」 の方が逸話を忠実に再現していると、以前紹介したことがある。

 しかし、「愛」という崇高な理念の象徴の誕生とするのであれば、ボッチチェリのこの作品の方が遥かに適切であろう。

 理念や思想の統合というものは、多様な意見を取り入れ、それを合意形成(コンセンサス)する高度な民度が要求される。従って、気の遠くなる、醸造と生長(胎児の発育のこと)という過程を経て、ようやく誕生するものであるから、これほどドラマティックで祝福される場面であってちょうど良い訳である。

 法治主義も同じである。その完成には、おそらく気の遠くなる年月の醸造と生育の期間を要するだろう。

 韓非子の思想を体現するという、ヴィーナスの誕生の如き祝福を受け得る国が有るとすれば、一国しか思い当たらない。

 法治主義のヴィーナスが舞い降りているその国を研究することで、法治主義は永遠の課題を克服し、「非情」の誹りを免れられるかもしれない。

賢者の贈り物

1 Eve

 クリスマスイブにプレゼントを交換する習慣は、イエス・キリストが生まれる前兆を遥か東方の三人の宗教的司祭が知り、長い旅を経て、イエスの生誕地、ベツレヘムにたどり着き、そこに居た、乳飲み子を抱くマリアの前にひざまずき、その乳飲み子のために、黄金、乳香、没薬といった贈り物をした事が、始まりだと言われている。

 ちなみに三人の司祭は「東方の三賢者」と訳されることが多いが、単数形ではマグストいい、三人いるので「Magi(マギ)」というらしい。これを聞いたら、エヴァンゲリオン好きはぞくっとするだろう。

 よくクリスマスイヴに、プレゼントを渡すときに、「メリークリスマス」というべきか悩むところであるが、メリークリスマスを和訳すると、「良き生誕祭をお迎えください。」または、「救世主の誕生を楽しんで下さい。」という意味となる。

 年末の最後の出勤日の退社時には、「良いお年を」と言って別れる習慣は今でもあるのだろうか?とにかく、前日でも当日でも、その日(生誕日)が良き日であることを祈願する言葉なので、プレゼントを渡すタイミングで発することは、別に問題ではないし、その方が盛り上がるだろう。

 

 しかし、なぜプレゼントは、前日に渡すのだろうか?私は、ずっと三賢者がベツレヘムに到着したのは、イエスが生まれる直前で、イエスが生まれる前に贈り物を渡したと考えていたのだが、ネットで調べた限りでは、三賢者が到着した時、すでにイエスは生まれていた。ということは、彼らがイエスに出会った時、日付はすでに25日になっていたことになる。

 これには、当時の暦の考え方が関連しているらしい。当時は、日が沈むとその日は終わり、次の日が始まると考えられていた。従って、イエスが0時を過ぎて生まれたのかどうかわからないが、25日の夜明け前に生まれたわけで、前日の夜も25日、つまり生誕日に含まれるというわけである。三賢者は、星のひかりに誘われてイエスの家に辿り着いたと言われているので、生まれたのは夜だったのだろう。

 さらに、クリスマスイブの「Eve」について、クリスマスの“前日”とか、クリスマスの女性形で、“予備日”的な印象を連想する人も少なく無いと思うが、「Eve」が「evening」の短縮語と知れば、疑問は全て解明される。

 そう、昔の暦で言うと、一日は、日没から始まる。従ってクリスマスイヴとは、イエスの誕生日とされる25日が始まってから、深夜辺りとされるわけで、イエスが生まれたのは、おそらくこのeveningである可能性が最も高い。

 というわけで、前日の夜がイエスの生まれた時で、プレゼントを渡すタイミングということになる。

 さてそうなると、25日夜明け以降の方には何か意味があるのだろうか?

 25日は、暦の連続性も有って、生誕祭という行事が行われる。実は、クリスマスの「マス」は、「ミサ(礼拝)」が語源となっている。

 

2 Holy Night

 ところで今更ながらの疑問であるが、イエスが生まれたのがイヴであったとしても、現代のイヴはかなり違った趣の象徴となっている。

 そう、恋人たちの、いや、片思いでも恋をしている人たちの、さらに、恋に憧れる人たちにとっても、とても重要で、深い意義を持っている。もし、交際している男性が、「24日は予定があるから会えないが、25日なら一晩中フリーだ。」と言われても、多くの女性は興醒めだろう。

 好きな人がいる人や、恋に憧れている人は、この日に何か起きないか、強い期待を持ち、実際に勇気を振り絞って行動に出る者も少なくなくない。

 クリスマスイヴは、イエスの誕生日である。子供を作る日でも、それを誓う日でもない。

 何から派生して、恋人たちの夜になったのだろうか?

 いろいろ調べてみると、やはり、クリスマスイヴにプレゼントを渡す事が主なる要因となっているようである。考えてみれば、プレゼントを渡すという行為を取り上げれば、両親が寝静まった子供達の枕元に、こっそりプレゼントを置き、翌朝の反応を楽しみにするのも、なかなかの一大イベントである。

 しかし、それなら、誕生日や女性が作る「何とか記念日」だって同じではないだろうか?

 いや、クリスマスイヴは特別だ。

 クリスマスイヴは、別名Holy Night(聖夜)と呼ばれる。ここでいう「神聖な」を表すholyの語源は、whole(全体)と同語源で、「完全な」の意味から「穢れのない」を意味する。何だか、スケールのでかい話になってきたが、とにかく聖夜というのは、イエスの誕生だけを祝うものではないということである。

 イエスの誕生により始まるはずだった、平和で安全な世界、それを祈願しているのだ。

 いかんせん、世界は完全に平和でも安全でも自由ですらない。

 だから、せめて、身近なものの平穏と安泰を願うわけである。

 そしてその感情は、もっと洗練され、「最も愛しい人が、最も喜んでくれそうなプレゼントを贈ろう。」という形に結実したわけである。

 

3 Gift

 少し前、gifted(ギフテッド)という言葉が流行したが、giftと言うものは与えられるものにとっては無償で与えられるものと考えられている。しかし、大谷翔平にしても、羽生結弦にしても、神から与えられた才覚だけで、その高みに居るわけではないという事は、多くの人が認めるところであろう。あるいは、逆に神が彼らに与えたギフトとは、彼らに尋常ならざる試練と苦行を強いているのかもしれない。まあ、厳しい世界戦の直後に「今一番何がしたいですか?」と聞かれて「練習」と答えるような方々に同情する余地もないが。

 ところで、神が与えるものは別にして、Giftというものは、与えられる側にとっては無償であるが、当然与える方は有償である。その代償の尊さを見事に表現したのが、オー・ヘンリー作「賢者の贈り物」である。

 本稿作成に当たり、東方三博士の贈り物を調べていると、元になったそのエピソードより、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」の記事の方が多く出てきた。

 有名すぎて、紹介は無用だろうが、忘れている方のために、簡単にまとめると、

 「ある貧しい夫婦が居た。生活は苦しかったが、互いに自慢できるものを持っていた。夫は、妻の艶やかで美しいブロンズの髪を誇りに思っていた。妻は、夫が先代から引き継いだという立派な懐中時計を自分のもののように誇りに思っていた。

 クリスマスが近づき、夫は、妻の見事なブロンズを飾る髪飾りをプレゼントすることにした。妻は、夫の懐中時計を持ち歩けるように、それに見合う、金のチェーンをプレゼントすることにした。

 イヴの夜、夫は、すっかりベリーショートになってしまった妻の髪型に驚かされた。

 妻は、誇らしげにチェーンを見せて、この髪を売って、これを買ったの。あなたの懐中時計に付けさせて。と言う。

 夫は、半分笑いながら答える。この髪飾りを買うために売っちゃんたんだよ。」

 私は、彼の短編集が大好きで、そこから、初めてペーソス(哀愁)という言葉を知り、それを独特のユーモアと融合させる奇跡的感動を何度も味わったが、このエピソードはその中でも傑出していると考えている。

 

 人間には、他人にプレゼントを贈ることによって感じる喜びや幸福感を持つ傾向が有り、心理学ではこれを、「善意の行為による幸福感」と呼ぶ。しかし、これにはたいてい裏があり、若干の報いを求めるという条件がつく。素直に喜んでくれれば良いが、ぞんざいに扱われると、「蛙化現象」並みの失望が待っている。

 また幸福感を味わうがために、身の丈以上のプレゼントをして、身を破滅させる、ホスト通いの少女たちもいる。

 

 一度話しておきたいと思っていたのだが、特殊詐欺に騙される高齢者の多くは、詐欺の事実を伝えても、信じようとしないらしい。「自分は、孫を助けたんだ。」「息子の危機を救ったんだ。」と言い張り、終いには、「嘘を言っているのはおまわりさんだ。」という。

 どうせ、墓場までは持って行けないお金、いつか何かの役に立てよう。ずっとそう考えているのだろう。

 「すわ一大事」「ここだ!この時のためにこのお金を置いていたのだ。おいぼれでも、立派に人を助けられるのだ。」と。杖も忘れて銀行に向かう。

 ある銀行員がATMの前で、特殊詐欺からの指示で預金を降ろしているのを止めたそうだが、その高齢者はATMの前で、嬉々として、ほくそ笑んでいたらしい。

 

 本年は、バブル期以来のクリスマス商戦が起きて、景気に弾みがつきそうだが、身の丈を超えた出費にはくれぐれも気をつけて欲しい。また、受け取る側も、いかにサプライズであっても、相手の懐具合は心配してあげた方が良い。それは失礼なことではない。女性として「しっかり」しているということだ。

オーギュスト・ルノワール「団扇を持つ女」

 ルノワールの作品を観ているとつくづく思うのだが、やはり女性には花束が似合う。花には、思うに意志のようなものが有って、女性と並べられるとギアをあげて、見栄えを誇るように見える。特に自分が美しいと感じている女性と花束が並ぶと、その競演は余計にレベルを上げるように見える。ただし、さすがにそれは贈呈者の主観に過ぎないので、客観的美醜とは無縁であろうが。

 愛おしい人を思い、彼女を見てギアを上げる花束を選択し捧げることは、ブランド品を贈るよりもずっと崇高な行為だと思うのだが、きっと受け取る側の大半は、ブランド品を好むだろう。

 デートの最初に渡すと、どこへ行っても邪魔になるし、とにかく耳目を引く。持って帰る頃には萎れていて、花瓶に入れても長持ちしない。残念ながら、デートを予定している場合は避けた方が良さそうだ。

 郵送で送るという手も有るが、私は、彼女がそれを受け取った時の喜びの笑みと、花たちのギアアップとがハーモナイズする瞬間が見たいのだ。

 というわけで、駅のコインロッカーに、十分な養生をして保管しておいて、別れ際に渡すというのが良いのかな。

 彼女は、きっと帰りの電車でたくさんの視線にさらされるかもしれないが、イヴの夜だったら、その視線の多くは、温かく、慈しみに満ちたものであろうと信じる。

天下の大事は必ず細より作こる(韓非子:喩老篇)

1 Destiny

 「どうしてなの?🎶今日に限って🎶安いサンダルを履いていた🎶」

 科学的に考えれば、全ての事象は確率によって支配されている。

 全ての結果には原因が有り、この因果関係を逆手に取ると、とある結果を求めるのであれば、その原因を造れば良いことになる。

 自分を振った相手に再び会ったとき、「惜しいことをした。」と思わせ、見返してやろうと思うのであれば、常に、身なり服装に注意を怠らないようにしていれば良い。

 安定した将来を求めるなら、良い大学に入れるように勉学に努めれば良い。

 しかし、サンダルを履けない生活はとても窮屈だ。多感な青春時代を勉学だけに投じることは、人生全体から考えるとマイナスのような気もする。

 従って、完璧な原因を築くことはできないわけであり、結果は確率に委ねられる。

 受験の場合、いろいろな方法で合格率なるものを計算してくれるので、ある程度自分の努力の過不足を予測することができる。それでも確率の範囲は超えておらず、100%ということはあり得ない。

 月に1日くらいサンダルを履く日があったとしたら、その日に元カレと出会う確率は約3%あるわけで、見返すことができる確率は100%ではない。

 従って、どのような不運な事象も確率論の上では間違いとは言えないのである。

 

 しかしながら、やはり、どう考えても納得のいかない事象は起こるものである。そして、幸運というものは、当事者の努力が幾らか作用しているように感じられるのに対し、不運というものは、無関係な第三者の不可思議な関与が絡むことが多いように思う。

 恋路などを例に挙げるとその兆候は顕著だ。ばったり会ったり、二人きりになる場面ができたりするといった幸運の方は、互いが好意を持っているから起きやすい。それに比べ、不運の方は、かなり無理があるような事が平然と起こる。人目に付かないタイミングを見計らって、勇気を振り絞って声をかけ、ようやく二人で話せる機会を得たというのに、ほとんど付き合いも無い知人にばったり会い、なぜか、挨拶だけでは去ろうとしない。とか。詰まったコピー機を直して、爪の先が真っ黒な日の夜の飲み会で、わざわざ回り込んで隣に座ってくれたり、靴下に穴が空いていたり、不運は、それを引き寄せる因果は何も存在しないのに起こる。

 努力したのに、あり得ない少数確率を引く。世の中はままならず、確率論ではあまりにも不可思議な事象、人はそれを Destiny(運命)という。

 恋路や受験なら、まあ幾らか修正が効くものだが、生死・五体に関わるとなると、英語で気取ってはいられない。

 

2 神仏

 私は生粋の合理主義者であるが、神仏の存在や運の良し悪しを信じる。

 前項の通り、その存在無くしては説明も納得もできない事象が世の中に溢れていることは否定できないし、体験もしている。むしろ確率論に準じた前項前半で示したような、当たり前の計算の方が虚しい努力のように感じる事すらしばしばである。

 ひねくれた私ですらそう感じるのだから、素直に思考する普通の人たちが、有り得ない不幸に見舞われ、確率論的努力(すなわち理性的計算)を見限り、神仏に助けを乞うということは、容易に理解できる。

 

 ただ、私のいう「神仏」は信じたり、祈ったりしたからといって、自分たちに有益な結果をもたらしてくれるとは限らない。 私の考える「神仏」とはまだ解明されていない何らかの意識を持ったエネルギー体で、確率上起こるべき事象(因果)を捻じ曲げる力を持っているもの。という程度だ。わかりやすくいうと、この宇宙には透明生物がたくさん存在していて、そいつらが因果を変化させている可能性があるということだ。

 

 量子力学や、宇宙の成り立ちを究明しようとする学者たちの報告は、年を追うごとに、理解不能で不可思議で、もはや究極の秩序を追っているのに、その答えは無秩序(何でも有り)になりつつある。従って、透明生物が存在し、因果を捻じ曲げていると言っても、バカにできる学者は居ないだろう。

 しかし、そう考えると、一生懸命神仏に祈りを捧げている人たちは哀れだ。私の考えた神仏には、慈悲の心も、そもそも、人語を解するかすら怪しいわけだからだ。

 悪いが、祈ってひれ伏せば、不運から守られるというのは誤りだ。それに頼って最大限の努力を怠れば、不運の確率はむしろ上がる。

 

 成功する者は、不運に見舞われた時、自省を始めとし、要因を検討するというが、私も含め、凡人はそこまで理性的ではない。確率論から外れた考えられない不運に見舞われると、何よりもフラストレーションが抑えられない。「せっかくあれだけ努力したのに。」「私が一体何をしたと言うのだ。」これらのフラストレーションを何かに転嫁しなければ精神的バランスが取れない。そこで矛先となるのが「神仏」だ。

 

3 信仰

 日本人は無宗教だと言われるが、寺社仏閣に対する敬意、神仏に対する畏怖の念は他民族に引けを取らない。初詣に行ったことがないとか、神仏に懇願した経験が無い日本人もおそらくほとんどいない。中年男性の腕につけているパワーストーンの普及率は、もはや民族衣装かと思うほどだ。

 

 さて、信仰の目的とは何か?

 私を含め日本人の場合言えることは、何らかの幸運を求めるか、謂れの無い不運に見舞われないことであり、悲しいことに、後者の理由が圧倒的に多いだろう。

 確率論上あり得ない不運に見舞われた時、人は理性を保つために、それは神仏の仕業であると考えるのである。逆に、成功を重ねている者は、基本的に努力が実を結んでいる訳であるから、世の中が確率論的である方が都合良いのだが、周囲にはどうしても納得のいかない不運が転がり過ぎている。だから、パワーストーンを巻いて、己の努力が確率論通りの結果を表してくれる事を願うのだ。

 

 しかし、ある意味信仰は便利過ぎて、過剰になる傾向がある。努力もせずに成功を願うとまでは言わないが、よくよく考えれば、自分が不運の因果を引き起こしているのに、神仏のせいにして、安易にフラストレーションをなすり付ける。題目を唱えていれば、いくらか気分が楽になる。それを西洋では「救われる」というのだ。

 

 実はちっとも救われていない、己が努力を怠る言い訳に利用しているだけだ。

 

 しかし、信仰は悪いものではない。真面目に取り組めば、宗教というものには、己を律するヒントがたくさん散りばめられているから。ただ、深く因果を考えず、安易に神仏のせいにすることは危険だ。人生万事塞翁が馬、それは、明日の成功のための試練かもしれない。特に、若い人は、可能性が有るわけであるから、一度や二度の不運は、むしろ追い風さ、と乗り切ってもらいたい。

 

4 争いの権化

 さて、いよいよ本稿の本題に入る。

 これまで話してきたように、私の考えでは、神仏と言うものは、信じたところで、祈ったところで、人語を解しない透明生物のようなものであり、少なくとも、決して慈悲深くはない。いたずらに、人の運命を惑わし、無駄なフラストレーションを生み出し、これを集めて、膨張するという不気味な悪循環を作り出している。もしかしたら、それが目的のエネルギー体かもしれない。そう考えると背筋が凍る。世界中の人たちが、謂れの無い不運に見舞われる度にそれを引き起こす不気味な生物を膨らませているということになるからだ。

 そのロジックから戦争を見てみたらとんでもないことになっていることがわかるだろう。フラストレーションをかき集めて膨張した信仰と言うモンスターが互いに争い、相手を傷つけ、互いのフラストレーションをさらに高めている。

 私は、「惨劇や悲劇を報道し、人々の感情に訴えても戦争は止まない。理性的に考えれば、 戦争で利益を得るのは武器商人か機関投資家ぐらいで、命の無駄遣いだ。」と、ずっと主張してきた。

 しかし、昨年のウクライナ侵攻から先日のパレスチナガザ地区の紛争などを見ていると、どうにもいくら損得勘定を説明したところで無駄であることを確信した。

 

 ハマスを操るロシアの思惑は見え見えだし、その思惑通りイスラエルは世界を惹きつけ、ウクライナの報道は全く届かなくなった。そのお粗末さを見るにつけ、こいつらはただ、日々の暮らしの中で起きる謂れ無き不運、いやもしかしたら、きっちり因果のある不運まで、まとめて固めたフラストレーションをぶつけ合っているだけじゃないのか、と疑念を持ったからだ。

 

 わずかな領土や利権の争いが戦争に発展するのには理由が有る。主に、歴史的背景、人種、偏見、不平等、政治体制の対立などが挙げられる。

 しかし、これらは思考により生まれたものであり、実態はなく、また互いに優劣もない。従って争う要因とは言えないのである。しかし、日々の欲求不満、フラストレーションがそれを「信仰」とし、やがて「正義」とし、ゲームでゾンビを撃ち殺すように、現実の人間を撃ち殺すことに免罪符を与えている。

 

 本当の争いの権化は、武器商人でも、機関投資家でもなかった。

 

 本稿で語ったロジックを直線で結べば、争いの権化は、「その日に限って安いサンダルを履いていた」という、確率論的にはあり得ない不運ということになる。

 

 

 しかし、ChatGTPは、私のこのロジックを否定した。

 「それは、裕福な先進国に生まれた人間の主観です。」とまず一喝。

 

 「育った環境や社会の背景によって、人々が驚くフラストレーションや問題は違います。裕福な先進国と比較して、経済的に不安定な地域や社会では、問題に対するアクセスや解決策が制限されることがあります。異なる状況にある人々の経験や視点を冷静に、共感することが、より多様性を内宮できる社会を築くための一歩となります。」

 

 確かに、この指摘は痛烈で、当事者の立場になって考えていないと言えばそういうことになる。この点修正はすべきかと思う。しかし、彼らの立場に立つと、そのフラストレーションは、生死に関わるものであり、私のロジックからすると、もっと強力なモンスターを潜在させている。つまりそこは、マッチ一本火事の元なわけだ。

 

 そして、双方の陣営に、関連は有るものの、安全なところから観戦している者がかなり居る。そして彼らの方が、おそらくそのマッチを握っている。

 踊らされる阿呆に踊らす阿呆だ。

 「カイジ」という漫画で、貧乏人達に命懸けの綱渡りをさせて、失敗するのを喜んでいる気色の悪い人たちと同じだ。

トゥールーズロートレック
「Rousse (La toilette)/赤(化粧室)」

 ゴッホドガゴーギャンなど、ポスト印象派と言われる画家の一人。ロートレックの名を知らなくても、「ムーラン・ルージュ」という言葉なら知っている人は多いだろう。彼の代表作である。

 先天性の障害により、両足が常人の半分の長さしかなかったことでも、彼は有名である。本稿において、五体に関する不運という表現を使用したが、身体障害者を蔑視する意思はない。また、本稿の挿絵として彼の絵画を紹介したのも、身体に障害があっても素晴らしい才能を持つ者もいるなどという、知ったかぶった事を言いたいわけでもない。

 

 私は彼の作品に在る、華々しいムーラン・ルージュダンスホールとは裏腹の、貧困の末、当時のフランスでは最下層の者が従事していたと言われる娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちの、フラストレーション的な一面、そのありのままの姿の描写に添えられた次の言葉を紹介したかったからだ。

 

「人間は醜い。されど人生は美しい。」

 

 私は、豊かで自由な国に生まれながら、その当たり前を得るために命懸けで戦い続ける人々のことを、結局はただのフラストレーションのぶつけ合いではないか!と断じてしまった。しかも、その過ちをAIに一喝された。

 しかし、私はそれでも、努力不足を安易に信仰に転換する危険性を指摘したい。また、戦場の当事者達も、自分たちを操っている人々の無責任を想像して、それこそこちらの立場に立って自分たちの姿を見てもらいたい。自らの知的レベルの低さを実感し、身なりは窮屈でも、もう少し美しい人生を得る方法があるのでは、と考えて欲しい。

 

 人間は醜い、しかし、されどもう少し利口なはずだ。

多様性を取り込む_その1

1 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 何度聞いても胸の奥にスーッと風が吹くような言葉だ。

 夏目漱石の著書は、文学好きには人気のようだが、結構、長ったらしい割に、何が言いたいのかよくわからないところが多くて、私はほとんど読破していない。それでも、「草枕」のこの冒頭のフレーズだけは忘れたことがない。

 発表から120年を経とうとする現代においても、人の世の住みにくさの理由はほとんど変わっていない。まあ情に棹させば詐欺に会い、意地を通すほどのスペースも無くなってしまったところは変わったか?

 しかし、この中で最も残念に思う人の世の悲しい所は、「智に働けば角が立つ。」という所だ。

 

 知り合いの精神科医の分析によると、日本には「ムラ社会」という残念な因習が根強く残っていて、変化や異端を忌避する傾向にある。そして、智者が正論を語ると「角が立つ」という悲しい現象がなかなか減らないらしい。

 

韓非子「孤憤篇」にこのような一説がある。

「智者は策を愚人に決せられ、賢士は行を不肖に程(はか・量)らる。」

 簡単に言うと、智者と相談する機会を得ながら、その智者の意見について、側近の凡人に相談し、賢者に出会う機会に恵まれながら、その賢者の印象を、側近の凡人に尋ねるという。

 これは、日本のムラ社会の悪いところに酷似している。素直に受け入れば良いものを、逐一、変化を異端とし、画期的な発想を規格外と恐れる仲間に相談しているのである。

 これでは、合理的で賢い治世を望むことは難しい。

 

 「智に働けば角が立つ。」習慣は、日本だけにあるものとは言えないが、日本人はとても保守的である。異端や規格外な発想をあまり信用しない。日本という国が発展したのは、いわゆる猿真似からのアレンジに優れていたというもので、アメリカのような、全くの0から1を生み出すような発明に縁はない。

 話は変わるが、先日、YouTubeで、これから200年の世界各国の栄枯盛衰についてGDPを尺度に予想したグラフが紹介されていた。グローバルサウスが発展して、中国ですらランクを落としていく、日本は間も無くベストテンからも消えていく。しかし、面白いのは、アメリカで、200年間ずっとトップに君臨する。あくまで、その人の計算や推計による予想だが、私は彼の国が、勝ち続けることに賛成である。

 まだまだ、人種や宗教による対立は残っているが、彼の国ほど「多様性」というものを取り入れている国は他にない。闇鍋を見るようなカオス的発想のるつぼ。あくまでイノベーションを起こすのは、そのほんの一部の発想だ。途方もない数の空クジの先にある。しかし、それでも当たりクジを引けるだけの土壌・器のデカさがある。だから、次から次へとイノベーションが波打ち際のように飛沫を上げ続けるのだろう。

 

 どんな馬鹿げた発想が世界を動かすかわからない。みんなそのことには気づいている。

 しかし、日本人の性格は、馬鹿げた発想はもちろんのこと、ある程度、根拠やエビデンスを持つ有益な発想ですら耳を傾けないところがある。正直、基礎教育が成り立っていない人の話まで聞く必要はないと思っているが、智者や賢者の話は耳を傾けた方が良い。

 ここでいう智者や賢者とは、著名な学者や政治家のことではない。もっと小さな世界で考える話だ。例えば、職場における問題点を指し示し、解決策を献策する者。つまらぬ争いをしている人間に、教養を活用して、一段高い立場から、つまらない争いであることを諭す者。不平等や理不尽が蔓延っているのなら、理非曲直を語りこれを正す者。

 だんだん、気づいてくれると嬉しいのだが、いずれも悪いことをしていないのに、「角が立って」忌避される存在だ。

 問題解決・紛争解決・公明正大。一体何が気に食わないのか?

 これが日本人最大の難点だ。

 後日、日本人が、外国人や障害者といった、多様性を受け入れる上でどうしようもない問題を抱えていることについて論じる予定であるが、その前に同類の日本人同士でも、自分のコミュニティに属さない者なら、いかに自分より頭の良い者であっても素直にその言に従えないという、KUSOみたいなムラ根性を叩き潰さないといけない。

 そして、それは、ムラ意識をカモフラージュにした、敗北をも認めたくないただのプライドなのかもしれないことに気づくべきである。

 

 結局。「智に働く者」はそれを認める者にのみ、みそめられ、活用され、彼らだけが、その恩恵を享受する。場合によっては、その利益は国外に流出しているかもしれない。

 

2 鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

 史記

 戦国の政治家、猛嘗君は、たくさんの食客を抱えていた。中には、鶏の鳴き真似が得意な者や、猿のような動きを見せ、さらりと財布をスルという特技を持つ者もいた。世話をする家人は、「あんな人たちが何の役に立つのやら。」主人の物好きにすっかり呆れていた。

 しかし、彼の国に政変が起き、危険が迫ったとき、このくだらない特技を持つ二人が、見事、猛嘗君を脱出させ、後に政権に復帰させる。

 どんな個性が役に立つかは、高度に不可思議なものだ。

 

 知り合いが勤める大企業には、変わり者がたくさんいるらしい。何が何でも持論を曲げない人、一日中ぼさっとして、全くアポを取ろうとしない営業担当、社内の応接で客と話すときは、いつもビクビクしている、端末操作がまるでできない。なぜか毎日叱られている。

 なんで、こんな人たちが、一流の大企業に居られるのだろうと不審に感じていたらしいが。不思議と大富豪のファンがいたりして、ノルマを落とすことがない。

 彼女は、営業の「正攻法」は、相手のニーズを素早く読み取り、十分に蓄えた商品知識を組み合わせて、お客さんにとって最も有利な選択を薦めることだと考えていたようだが、お客さんは自分の思い通りの選択はしない。

 よくわからない、自分には無駄としか思えない商品に興味を示したりする。そして、なぜか、前述の不思議な従業員にこれにやたら詳しい人がいたりする。

 営業マンが息つく暇なく喋くりまくり、まるで話題のつきないのを面白がるようにいつまでも聞いていられる客、逆に、客が、どうでも良い世間話を何十分しようとも、相槌を打って聞いてくれる営業マン。人の心は何に鷲掴みされるかわからないのである。

 確かに、正攻法というものはあるだろう。それで平均点は取れるだろう。しかし、人の心情は方程式では割り出せない。何が功を奏すか?それは高度に不可思議なのだ。

 

 「ロングテイル」と言う言葉をご存知か?ブロントザウルスの胴体を「売れ筋」とし、尻尾を「ニッチ」と捉えた時、しっぽは、胴体よりも体積が多い可能性があるらしい。一流の競争社会ともなれば、ニッチを捉える個性もまた重要なのである。

 いかにして、跳ね上がる個性を組織内に保有し、かつ、他の社員の福利に差し障りが無いようにするか?それができてこその一流企業なのだろう。

 

3 ペルソナ

 先日、インボイス制度について書いた「王様は裸だ」を読んでくれた方から、「ペルソナ」という言葉を聞いた。「他人から見た自分の姿」という意味だそうだが、他人に自分の意見を聞いてもらおうとする場合、自分が今どんな表情をしていて、相手にどう見えているか、という「ペルソナ」を意識することが重要だという。

 ブログや、自分主催の講習会などの場合は、そんなに気にする必要は無いそうだ。それは、客が離席する自由があるからだそうで、インボイス説明会のように離席し難い場で、持論を語るには、「ペルソナ」をよく意識するべきだとのこと。なるほど面白い話を聞いた。

 

 SDGsが語られるようになってから、企業も行政も幾らかの努力はしている。

 私の職場でも教材が配付され、自習や研修も受ける。しかし、残念ながら、うちの組織には「ペルソナ」が見えていない。

 時折、この教材は誰が作ったんがというほど、誤解の塊を一生懸命語っているテキストがある。これについても後日例を挙げて、詳細を話そうと思うが、とにかく、やるならちゃんと知識人や専門家にチェックしてもらえ!と言いたい。形だけのSDGsなのである。ちなみに、SDGsを日本語に訳せる者は、2割も居ないだろう。

 自分の思い込みや、誘導したい情報のみを配信して、例えば「WLB」とは、夫が育児に参加する事(だけ)だと誤解させたりしている。この辺りの問題点は、いずれまとめて論じたいと思っているが、5000文字は超える。

 

 それから、「面談」という機会が増えて、平民の話も聞いてもらえるようになったが、どうやらここでも「智に働く者は角がたち」、智者や賢者は本当のところを話さないようだ。

 代わりに、同じ仕事ばかり長くやっているので無駄に力を持っている人や、無能だが、作り話だけは得意な人間が、上司を上手に誘導している面がある。

 陳情は、必ず真偽を正確に抑えること。他人の批判については、真偽を確かめることはもちろんのこと、必ず、相手の言い分にも耳を傾けることは最低限の鉄則だ。

 賢者や智者に話されるにはどうすれば良いか?それは、自分でこれを見つける事である。

 多彩な職をそつなくこなし、人を性格ではなく得意分野で振り分ける。そして、何より誠実で職務に忠実である。ただ一つ声は小さい。

 これらを登用すると、古参や既得権者からは角が立つだろうが、それこそムラ社会的風潮を拭えず、本来の目的を見失っている今の自分たちの「ペルソナ」を見つめて改心する時である。

 

 「智に働けど角立たず」。そう言う国にならなければ、この国は、世界が目指すSDGsの目標で、ことごとく順位を下げ続けるだろう。

マルク・シャガール「7本指の自画像」

 シャガールは、ロシア出身の画家。印象派からピカソという常人が理解できる最終形に至る絵画の変遷期の中で、かなりゴールに近い側に位置する。市立図書館の実物大レプリカを初めて見た時から忘れられないインパクトがある。

 パリのエッフェル塔が。画上の風景は、故郷の景色で、彼の作品の象徴と言える馬が描かれている。

 3項で紹介した、感想で、「ペルソナ」の話を聞いた時私は、この絵画を思い出した。

 バックに見えるのはエッフェル塔で、画上には、故郷ロシアの風景。そんな郷愁に浸る、自分自身を他人が見たらどう見えるのか、その「ペルソナ」を表現しているように見える。

 それを「苦悩」と捉える人もいるが、私には、躍動感と活力を感じてしまう。このどう見ても気持ちの悪い絵が誰かに気に入ってもらえるという自信。それだけで天晴れだ。

 私は、彼が「智に働いている」場面だったとしても、何も不快感を感じない。

 異端や規格外に不快感を感じていると、いつの間にか、くだらないものを大事に握りしめているかもしれない。