孤憤

死刑にすればいいってもんじゃないんじゃないの?

1 要因
 京アニ放火事件の青葉被告の死刑判決が出た。当然の結果であろう。
 彼のように既に人生が破綻し、自分の命がさほど重要でなくなったものにとって「死刑」と言う刑罰は、どうやら凶悪犯罪を抑制する効力を失っていることを実感する。
 池田小学校の児童大量殺人事件以来、このような人生破綻者による道づれ大量殺人が続いている。彼らにとって、死刑はむしろ救いであるかのようである。
 そうなると、「死刑判決」や、それが当然としか思えない裁判に、何の意義があるのだろう、という疑問にぶち当たるわけだ。
 しかし、全身大火傷で近畿大学に運ばれてきた瀕死の状態の青葉被告を、懸命な救命措置で蘇生させた鳥取大学の上田医師は言っている。「目の前で死にかけている人間を救うのが職務であるが、それもさることながら、このような残虐非道で悲惨な犯罪が、彼だけの問題で起こるとは思えない。青葉被告が裁判に立つことによって、そのいくつかの要因が明らかになることを願った。」と。
 実際、裁判の過程の中で青葉被告の通常とはかけ離れた、かなり悲惨な半生が語られている。それに比べ、大阪市北区で起きた精神科医院放火事件(被疑者を含め死者27名)については、被疑者が死んでしまったため、被疑者の動機はほとんど明らかになっていない。
 上田医師の指摘するように、青葉被告の場合は、被告自身の問題だけでなく、それを取り巻く社会的な問題がある可能性が垣間見える。
 しかし、一審の審議だけでは、垣間見えるに留まっている感が否めない。
 「親が離婚して、貧困の中、虐待され、まともに進学できなかったから、社会に適用できず精神を病んだ。」という点が示されたに留まっていて、上田医師が言うような社会的背景や問題の考察は薄いまま進んでいる。
 弁護側の戦略が、ここから妄想癖に繋げるためであろう。

 以前このChapter2の冒頭で語っているが、日本と言う国は一見豊かな先進国のようであるが、その裏ではその強烈な勤勉さと言う国民性を利用して、何十年もポテンシャルに見合った対価を支払わず、搾取している現状が続いている。そのフラストレーションは例えばいじめであったり、パワハラであったり、ネットにおける誹謗中傷といった形で、他人を傷つける行動に現れている。
 子供の虐待もその一つだ。ちょっと昔は、DVといえば、妻に対するものが多かったように思うが、21世紀に入って、子どもへの虐待が急増している。妻は、逃げたり、訴えたりすることができるから面倒なのかな?卑劣極まりない。
 しかし、そのような逆境の中でも子供と言うものは自分で人間になっていくわけであり、大人になっていくわけである。多少心に傷は持っているものの、何とか社会に順応しようとするものである。青葉被告が定時制の高校を皆勤で卒業しているのは、驚くべき事実だ。
 彼に、もう少し、何か良い出会いがあれば、何も起こっていなかったかもしれない。
 ただ虐待を受けて育った者の幸福への道は険しい。
 
 「日本人は、勤勉で親切だ。」
 多くの一般人は、勤勉な親に育てられ、それが当たり前の社会で育つ。そのため、怠けたり、手抜きをしたりすることが逆にできない。財布を拾って届けない人が不思議に見えるように、さしたる用も無いのに、気分が悪いと言って早退する人間を認めることができない。どんなに仕事ができても、いつも遅刻ギリギリに来たり、うとうとと居眠りをしたりしている人間も許せない。
 しかし、理不尽な虐待を受け、まともな情緒と感性を受け取れなかった者にとっては、その当たり前は、残酷過ぎるハードルとなる。
 虐待の過去を話そうとしない彼らは、身障者にもなりたがらず、ヘルプマークも持たない。だから、その心情を汲み取れと言われても難しいことかもしれない。また、本当に怠惰でだらしない人間と区別する事も難しい。しかし、別に不真面目というわけではないが、どこか常識についていけていない様に見える者は、自分たちとは違う家庭環境からのサバイバーかもしれないという意識は必要かも。
 かつて、受験戦争の過熱ぶりから、「落ちこぼれ」が問題となり、ゆとりの重要性が主張された。ゆとり教育を悪く言う人もいるが、多くの落ちこぼれが救われた。
 今は生真面目で潔癖な人々も、実は薄々気づいているはずだ。過酷な搾取の中で、欲求不満が深層心理で膨らんでいて、ゆとりを失いつつある自分に。
 今はたまたま、安全運転ができているだけ。離婚したり、失職したり一たびバランスが崩れれば、窮屈すぎる生き方をしている自分に気づき、青葉被告が感じていたハードルの虚しさに気づくだろう。
 青葉被告ほどではないが、日本において勤勉と言われる人々も、いつでも、八つ当たり的な犯罪を犯す可能性を秘めている。
 この裁判によって、そういう、一見幸福な先進国のゆとりの無さを皆が考えるきっかけとなるのであれば、上田医師の功績は甚大である。

2 結果
 判決の文言の中に殊更にその死者数が前代未聞の「36人」と何度も唱えているが、青葉被告は、果たして、計画的に36人を殺したのであろうか?確かに「皆殺しにしてやる。」という意図はあったとしても、例えば、戦場において、ある施設に出入りする30名以上の人間を、一人残さず殺戮または捕縛しなければいけない作戦があったとして、かつそれを一人で成功させなければいけないと命じられた時、あなたにその作戦を立案することができるだろうか?
 青葉被告は、あの建物は吹き抜けになっているから、上層階までの火の回り、煙の充満が早いと考えていただろうか?屋上に出る扉は普段施錠されていて、緊急時にも開かないと知っていただろうか?ガソリンというものに火をつけた経験の有る者は少ない。その延焼力の強さをどの程度知っていたのか?実験はしたのか?確かに一番逃げやすい玄関フロントに火を放ったのは、残虐ではあるが、実は裏口の方がデカかったり、スプリンクラーが作動したりして、ただの間抜けになっていた可能性は十分有るわけだ。
 これに比べ、大阪市北区精神科医院に放火した被疑者は、院内の見取り図をよく理解した上で、非常階段に出る扉をテープで目張りしたり、消火栓の場所が分かりにくくなるようにカモフラージュしたり、かなり周到な、殲滅計略をたてられている。

 この辺りについて裁判では全く触れられていない。それを以って前代未聞と言い切るのは、いささか法曹にあるまじきと考える。
 
 このように被害が甚大化した要因を青葉被告の計画になかったものとすることで、彼の罪を軽減すると言う考えは毛頭無い。軽減したところで、彼が死刑になる事は変わりない。ただ、被害が甚大化した要因については、細かく検証し、今後このような残虐な放火犯罪が起きても、被害を最小化する防護策が検討されるべきなのである。
 例えば、私の勤務先では、以前から非常口や屋上の扉は「緊急時以外開閉禁止」と言う簡単な封印がしてあり、緊急時にはその紙を破るだけで脱出が可能である。京アニにおいても屋上の扉がこのように臨機応変して対応できていたら、十数人の命が救われたと考えられる。
 さて、現在この事実を多くの人が報道で知っているのであるが、皆さんの企業においてこのような発想の転換や緊急脱出口の工夫、またおかしな放火魔が突然現れた場合の対応等について話し合われたことがあるだろうか?
 そのような影響を考えると、殊更に犠牲者の人数の多さだけを強調し、そのように被害が甚大化した理由を議題に上げようとしない今回の地方裁判所は阿呆だ。

 それから、ガソリンの管理についても考え直すべきだろう。アメリカの銃乱射事件より簡単に多数を殺傷する、とんでもなく危険な代物だ。
 しかし、今でも、セルフG Sでは、簡単にポリタンクにガソリンを入れることができる。
 「車のガソリンタンク以外には入れないでください。(防犯カメラ作動中)」の一言も書いていていれば、かなり抑止効果があると思うのだが。これも、本裁判で、被害が甚大化した要因についてしっかり議論しなかったことが問題である。
 弁護人は、本人の妄想などどうでも良いから、計画的に殺した人数は何人だったかについて争えば良かったのだ。

3 控訴
 多くの遺族が、弁護人による控訴について難色を示している。聞くところによると、青葉被告本人も控訴には消極的だとか。
 確かに、遺族の言うように、「機械的な控訴ならやめてほしい。」という指摘は正しい。
 正直、今の弁護士での控訴審は無駄だろう。
 ただ、私が犠牲者か、遺族の一人であるとしたら、控訴審は行なってほしい。
 一つは、青葉被告がまだ妄想から冷めていない事。
 法廷で、「京アニがアイディアを盗むことは問題にしないのか?」と発言している。
 ちゃんと、彼の出展作品を精査し、一体どこが盗用されているのか?はっきりさせてやるべきだ。たとえ似たような点があっても、それが盗用であることを立証することは難しい。もし、彼に十分な資金があり、裁判に持ち込んでいたら果たして、盗用は認められたか?彼の脳髄までわかるように、徹底的に説明してあげれば良い。その上で、「私は、裁判では無実となる人を殺したんだ。」と言うことを、死刑の日までに1日1万回唱えされば良い。
 次に、1項で挙げたように、この事件は、青葉被告だけの問題では無いことをよく考えるべきである。後を絶たない、道連れ放火の連鎖。彼らは、この事件を手本にそれを起こしている。
 コロナ禍が過ぎ、景気を取り戻し始め、明るく平和な日本が戻って来つつあるが、一部にゆとりのない人間がいる。障害者問題を考えるように、彼らのことを考える必要がある。
 少子・高齢化、国の借金、周辺国の情勢不安。問題は山積だが、健全でゆとりのある国民が多ければ多いほど、内政も外交もうまくいくものだ。少なくとも日本という国はそう言う国であり、日本人というのはそういう国民だ。まずは、働きに見合った賃金を獲得し、不満が無く、ゆとりのある社会を築いていけば、悲惨な生い立ちを持つ者を救う手立ても増えよう。
 京アニ事件について、「自分たちには理解のできない気狂いが、訳のわからない事をほざいて、たくさんの人を殺した。」としか見られないとしたら、亡くなった36人は浮かばれない。もっと深く、もっと多角的にこの問題を考察するために、私は控訴審を望む。

ドラクロア「サルダナパールの死」

 18世紀に入り、絵画は、それまで主流であった理性的・合理的で「完全な美」を求める古典的教条主義と呼ばれる束縛から放たれようと、事実を多少粉飾したり、場合によっては、あからさまに創造したりする事によって、より、叙情的で、感情に訴える表現を求め始める。これをロマン主義という。絵画が、被写体に忠実という限界から逃れ始めた最初の胎動である。
 サルダナパールは紀元前、アッシリアに君臨した暴君で、その実権が奪われる時、道連れに女官を惨殺する。その悲劇は、バイロンの戯曲「サルダナパロス」として、当時流行していた。
 いつの時代も、自分勝手に道連れ殺人を犯す者は居るようだ。いや、本当、死にたいなら一人で死んでくれよ。と願いたくなるが、死を覚悟した者は、他人の命も軽視するということだ。
 ところで、この絵画は、見ていると気分が悪くなるほど、恐ろしい場面を、克明に描いているのだが、200年経った今でも、ドラクロワの代表作の一つとして挙げられ、またロマン主義の象徴としても挙げられる。それだけ、人の心を震わせて来たのだ。そして、このようなグロテスクな絵に心を震わされるような人々は、いつでも、サルダナパールになり得るわけで、そのような情緒が、200年も支持されてきたということだ。