孤憤

Castling

1 Castling

 韓非子は類稀なる国家運営思想を発案したが、それを君主に伝えることの難しさを強く嘆いている。これが宗廟に籠り、ひたすら世の理不尽を駆逐し、世の民の安寧を願っても叶わない「孤憤」となって記される。しかし、その強烈な憤激と既存の概念を覆す発想は、宗廟に収まらず、世を席巻し、秦の始皇帝にまで届く。

 これに倣い、本編では、多少過激、あるいは奇抜な発想と捉えられても、敢えてBlack Kanpishiとなり、インパクトのある議論を展開することにより、一言言ってやりたくなるような刺激を読者に与えたいと考えている。

 その奇抜な発想が、画期的なものなのか?それとも、単純に私が知識不足なだけで、一言の反駁で論破される愚論なのか、その辺りが一番知りたいのである。

 しかし、ホームとしていたはてなブログの方では、残念なことにほとんどアクセスが無い様子だ。3年ほど放置しているうちに、利用者が減ったのかなあ?せっかく冒頭のつかみのところで、現在に通じる諸問題の考察をしているのに、時期を逸してスルーされそうだ。

 そこで、第一章完結を待たずして、NoteにCastling(城替え)しようかと考えている。こちらの方は未だ盛況で、どんな投稿でも、結構アクセスしてもらえる。利用者の多さもあるだろうが、好奇心の強い人が多いのだろう。

 リアクションを求めるというのは、実は非常に怖いものだと考えている。

 

2 逆鱗 (説難篇)

 韓非子は、新しい進言が君主に伝わらない理由として、①君主を取り巻く臣下の多くは、自らの利益に敏感で、新しい考え方が取り入れられると自分にとって不都合が生じる可能性があるので、君主に近づけようとしないこと②君主にも好みと言うものがあり「名誉を重んじる者」には、民を喜ばせ名誉を得られる進言を、「財産を求めるものまたは贅沢を求めるもの」には、あからさまに気づかせないよう、結果的に倹約できるような進言をしなければならない。③そして、最も注意するものとして、新しい政策を提案する以上、場合によっては、現場の施策に対して苦言を呈する必要が生じる(まぁおそらくそうだろう)。この時、決してやってはいけないことがある。その政策が君主のお気に入りであったり、その国にとって不可欠な習慣であったりする。これに触ると君主の激怒を受けることになる。

 韓非子はこれを、龍の首の下に1つだけ逆さまに付いている鱗が有って、それを触ったら龍が激怒して食べられるという伝説から「逆鱗」と名付けた。

 これに触ると、もう理屈も何もなくなってしまう。それ以上話を聞いてもらえないどころか、命の危険さえある。

 全く君主に持論を展開するのは恐ろしい。現在の君主は国民一人一人である。これらを説得する事は1人の大統領を説得するよりずっとずっと難しいね。逆鱗もきっとあちこちにあるのだろう。

 

3 巧詐は拙誠に如かず(説林上篇)

 「説難」の時は、論説の構成にかなり気を配ったものだが、どうもやっぱり以前に比べ、キレもなければオチも曖昧。何より構成にブレを感じる。前半の論調と後半の論調がずれていたり、無駄に言葉を変えて同じことを言っていたり。手直しを試みるのだが、いじっているうちに、だんだん逆に本当に言いたかったものがなんだったのかゲシュタルト崩壊し始めることも有る。そこで、やむを得ず、元の文章に戻ってしまうと言う次第で・・・。こうやって、無駄に言い訳を連ねているのもスマートじゃない。

 「日朝国交樹立」案にしても、本当は、その戦略構想は、東南アジア・インドを巻き込み、台湾の主権保護、西洋以上に東南から圧力をかけて、中国を介して、ロシアを大人しくさせるところまで考えていた。

 しかし、日朝国交樹立案の条件設定に力を入れ過ぎて、うまく纏まらなかった。

 それを、他の投稿で補足しようとしたので、意図が伝わったかどうだか疑問だ。

 しかしまあ、これについては、単純に考えて思うのだ。なんで大した喧嘩のネタのない北朝鮮と一生懸命喧嘩しているのか?世界には、あれより忌むべき国はたくさん有る。私の提唱した方法を実践すれば、数十兆円と言う税金が不要となると言うのに。私は、メディアもグルになって国民をマインドコントロールして、裏では武器商人が儲けを山分けしているんじゃないかとさえ考えている。

 そして、ネット上を散々探したが、こんな素朴な疑問が、まるで統制でもされているかのように見当たらなかった。愚問なのか?それとも画期的発想なのか?

 いずれにしても、「巧詐は拙誠に如かず(説林上篇)」。素朴な疑問が、学術的に検討の重ねられた巧妙な論文より勝ることもあろう。綺麗な文章を書くことよりも、その発想を表に出してみる事が重要なのだと考える。

 私の知力では実現できなくても、もっと優秀な人の目に留まって、その発想からより良い道を導き出されることもあるかもしれない。

 

4 およそ人主の国小にして家大に、権軽くして臣重きものは、亡ぶべきなり

 大臣の家の規模が君主の家より大きくなり、臣下の権威が君主の権威をしのぐ、このような時、国は亡びるであろう。韓非子亡徴篇(47の国が滅びる兆候)の第一に挙げられている。今一番私が「孤憤」を抱いている事象だ。

 日本における君主とは、我々国民一人一人であり、ここでいう臣下とは、総理大臣を含める行政機関及び国会議員のことだ。

 本編では、意図した訳ではないが、戦争関連の話が多くなってしまったが、私は単純な反戦論者ではない。

 以前、ある議題の講師として、自衛隊駐屯地に招かれた時、講義中に当時最新鋭の10式戦車が運ばれているのを見て、思わず「あれもしかして10(ヒトマル)ですか?」と受講生の自衛官に尋ねてしまい大笑いされた経験も有る。

 40歳くらいまでは、兵器、地理的戦略構想にも詳しかった方だ。

 ちなみ、前述の講義の後、自衛隊の士官から「10型を自走させますが見ていきますか?」と言う、少年の心をそそられる誘いを受けたが、駐屯地に入って以来、すれ違う人すれ違う人に、立礼(足を止めて頭を下げ挨拶する)を受けていた。

木端役人とて、公に服するにおいては、彼らに同じ。惜念を堪えて「本当は好きなのですが、公務で来ておりますから。」とジョーク以上の戯れは控えた。すると、士官は、即座に私の心境を察し、「では、後日一般公開の機会があればお越しください。」と敬礼した。親しき仲に背筋の伸びる理非曲直を感じ、敬服したものだ。

 それに比べ、なんだ、あの防衛大臣や総理大臣が不似合いな軍服とヘルメットを被って子供のようにはしゃいでいる見苦しい映像は、一応「視察」(公務)と言うことではあるのだが、明らかに戯れているではないか!

 

 ここで言いたいことは、主権者でもない臣下(政治家や総理大臣)がのさばり、君主の目を覆い耳を塞ぎ、勝手に血税をばら撒き、兵器を買い込み、貨幣の価値及び国家の品格を下げ、そして何より、君主に先んじて、「法」(それも国権の制限を定めた憲法)を逸脱しようなどと言う状況を問題視しているのである。

 兵器・戦略・戦術に長けることは、ある意味必要であるが、孫子の兵法によれば、それは全て無用な戦争を避けるためのものであり、止む無く砲火を交えるとならば最も効率的に戦略的目的を果たすためである。私が詳しかったのも同じ理由だ。だから、兵器が格好良いと言う面があることも知っているが、ガキのようにヨダレは垂らさない。

 今の政治家にどの程度その素養があるのか甚だ疑問だ。

 

5 良薬は口に苦し (外儲編)

 前編「説難」では、平和学の創設を訴えるなど、かなり、戦争と平和について議論を展開した。しかし、その後いろんな人の意見を聞いて、この問題については、世代間の違いも大きいが、とにかく人によって考えがかなり違うことを知った。それはなだらかな折れ線グラフのような違いではなく、スペクトラムのように、類似した隣同士の意見でも相容れないように思えた。

 しかし、それは戦争や平和に対する考えだけじゃないのではないか?

 例えば、少子化問題や障害者・外国人の流入、先進国のくせにどこか鈍臭いところの有る我が国のこととか。

 韓非子は、適切な「法」を定める上で、君主は、厳しい反論こそ良薬として耳を傾けるべきだという。民主主義の我が国では、一人一人が君主である。だから、世情の諸問題について語るのであれば、宗廟で「孤憤」を漏らしているだけでなく、他者の苦言に耳を傾け、良薬をして修正し、そのような混ざり合わないスペクトラムから、最大公約数としての「法」となり得るものを生み出していかなければならないのかなあ。とも思うのである。

 最近通うようになったカラオケの歌詞によく出てくる「怖いのは自分だけじゃない。」「一人では見られない色というものがある。」。

 持論は、論破されて脱皮する。良薬の処方をお待ちしています。

ボッティチェッリプリマヴェーラ(春)」

 賑やかであったり華やかであったりする絵画は別に苦手ではない。しかしこの作品はやや賑やかすぎるように感じる。神話の画家と言われたボッティチェッリらしくよくまぁこれだけ様々な神話を1枚の絵画に詰め合わせたものである。登場人物が多すぎて神話のパエリアになってしまっている。

 しかし、どこかでネットの世界を表現しているようにも思える。ガヤガヤとあちらこちらで、自分勝手な会話がなされている。中央で聞いているヴィーナスは、 つまみ食いをするかのように、人々の話に耳を傾け、知識を得ていくのだろう。

 騒がしいところは苦手だと言う人もたくさんいる。しかし、この会話のカオスの中に飛び込み、ヴィーナスの位置に立たなければ、「孤憤」は自我を獲得することができない。