孤憤

韓非子を非情と言う勿れ

1 非情の思想家

 中国の思想家、韓非子は何かにつけて「非情の思想家」と呼ばれるが、それは何故か?

 一般的に言われることは、彼は人を信用せず、冷酷で厳格な法律を以って国を統治する強権的な法治主義を唱えたからであると言われている。

 しかし、私は彼の韓非子55篇を全て把握しているわけではないが、少なくとも君主に対し冷酷さを求めたと言う記述は見当たらない。

 兵法家孫武孫子)が、ある君主に「女でも立派な兵隊にできるか」と問われ、宮中の女官を練兵させられた際、真面目にやらない女官たちに対し、「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪、命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官(隊長)の罪なり」と言って、隊長を務めていた君主の寵姫を処刑する。すると、女官たちは、その後、孫武の号令に必死で従ったと言うエピソードは有名だ。

 しかし、韓非子55篇に、何百編も有る説話の中に、このような冷酷な話は一度も出てこない。逆に、部下に裏切られる君主の末路については、やたらと脅すような残酷な説話をいくつも取り上げている。

 わかるだろうか?両者の違い。

 孫武は、法を守らせるためなら、このくらい冷酷であるべきだと説き、韓非子は、法を守らせないと、あなたがこのような悲惨な末路を辿りますよ。と言っているのだ。

 どっちが非情な思想家だっちゅうの!

 まあ、孫武が扱うのは兵法だから、苛烈で当然とも言えるが、孔子孟子が言っている言葉でも、非情な表現や、冷酷な判断を促す局面が無いと言えるだろうか?私は、こちらの方にはあまり詳しくないので、確証の有る具体的な例は挙げられないが、有名人だけにいろいろ悪い方のエピソードも聞いている。

 

 まあ、他人と比較する必要も本当は無い。

 韓非子55篇を見る限り、彼は一度も冷酷さを求めていない。また、強権力で強引に従わせろとも言っていない。

 彼が求めたのは、法の厳格なる適用である。

 法を施行するにおいて、一つの重要な観点がある。

 「これをやったら、この罰を与える。これができたら、この賞を与える。」と定めたら、必ずその通りにこれを実行することである。罪人が知り合いだったり、気に入らなかったり、で答えを変えてはいけない。つまり、法の適用において、決して感情を介入させてはいけない。ということである。だから、そこには「非情」が存在する。

 人がルールを守るのは、答えが決まっているからである。これを「法治における予測可能性」という。これが守られなければ、「不公平」が生じる。すると、法治は瓦解する。

 従って、この「非情」は、法治の根幹に関わる要素なのであり、国家国民の公平のための「非情」なのである。

 それでも、彼を非情の思想家と呼ぶべきか。

 

2 法治主義の欠陥

 そもそも、韓非子は、当時主流となっていた、孔子が唱えた「徳治主義」、すなわち、君主が率先して、正しい道を示し、道徳を奨励すれば、国は安泰するという考えに対するアンチテーゼとして、「法治主義」を唱えた。

 孔子の言う道徳などと言う、時代や慣習によって変わる曖昧なものを主柱に据えることと、その道徳を全ての国民が実践しなければいけないと言う、とんでもなく窮屈な社会に、どれだけの人間が賛同できると言うのだ。というのが簡単な反論だ。

 では、法律にがんじがらめにされる社会は窮屈では無いのか?

 

 韓非子55篇に記された法規則及び制定方法は、君主が如何に臣下を支配するかという点に集中している。どう言う部下が悪さをするか?どうやったらそう言う部下を見つけられるか?君主はそう言う部下を生み出さないためにどうあるべきか?という話が大半を占めている。

 直接、庶民について論じているところが有るとすれば、法を定めるときは、軽罪ほど厳しく取り締まれ(水は形懦にして、溺るる者多し)、とか、明確な利益が示されていれば、庶民でも勇敢となる(利の在る所は、皆な賁諸と為る)と語っている点くらいである。

 すなわち、韓非子が求めた法とは、国民をがんじがらめにするものではなく、権力者を統制するものだったわけである。決して、国民にとって、窮屈な社会を望んだわけでは無い。

 

 しかし、韓非子の理論を受け継いだ秦の始皇帝は、その便利さにハマってしまいこれを濫用してしまう。この辺りは、以前「韓非子2000年の悲運」でも記したが、今回はこの点について、別の視点で見てみるとする。

 

 実は、法治主義には、大きな欠陥が有る

 法はあくまで社会全体を統制するための制度であり、個々の行動や価値観を完全に規定することはできない。従って、法が及ばない範囲での個人の道徳的な選択や行動は、どうしても存在する。始皇帝は、そのような人身の個々の事情、慣習、道徳心まで法律で規制しようとした。つまりそれが秦の一番の過ちと言えよう。

 例えば、病気の肉親を抱えた家庭であっても、法は厳格に適用してこそ公正が保たれるとし、「法令通りの税を納めなければ、万里の長城の現場に行ってもらい、骨と皮になるまで働いてもらう。」と命じたら、本人はもちろん周囲の人々も納得しないだろう。

 法は本来その適用が厳格であればあるほど、予測可能性を保持し、公正を保つ訳であるが、それは統治者側にとって重要な要素であって、庶民には、それぞれ公正や平等より、孝行や友情・信頼など、道徳的に重要なものがあり、その点どうしても官民に意識のずれが生じる。

 「法治主義」の不可欠な要素である「非情」は、庶民的には、不道徳に類するものである。如何に、国の統治に欠かせないものと言われても、庶民にはもともと受け入れ難いのだ。

 ましてや、秦の二代目の時期は、中央権力の横暴が蔓延り、法治の利点である、公正・平等も失われた。まさにただの非常で不道徳な統治者だ。誰も従うまい。

 

3 修正法治主義

 韓非子は、法治主義のこの欠陥を理解していた。

 前述の通り、韓非子55篇の記述は、行政機構の統制に重きが置かれている。庶民の直接統制についての記述は少ない。

 韓非子の特徴的な統制術の中に、まず、相手の事情を聞き、その者が叶えられる目標を申告させ、それが叶えばこれを賞するとした(形名参同)というものが有る。もし、庶民に対して何らかの法を定める必要が生じていたら、彼は、庶民に対しても同じことを求め、同じ賞罰を与えただろう。

 しかし、その記述はない。なぜか?

 

 「善吏徳樹」という四字熟語にもなっている説話がある。韓非子が、行政官とはどうあるべきかを語った有名な説話である。前巻で紹介したことがあるし、最近では、漫画のキングダムのおかげで、韓非子もかなり有名になってきたようなので、簡単に検索で出てくるので、詳細は省略する。ただ、一時期私が座右の銘にしていたほど感動的な説話なので、一読していただけると嬉しい。

 この説話では、行政官の誠実さが、罪人の心を動かし、善人に変貌させるのだが、この「善吏徳樹」という言葉自体は、実は孔子の言葉の引用である。

 孔子法治主義についてどう考えていたのか、文献上の判断は難しいらしいが、「法治では、道徳は育たない。」という法治主義の欠陥を看破していたという説がある。しかし、孔子の理論の大原則は、権力側の姿勢が道徳的であれば、支配される側にも徳が及ぶというものであったから、法治主義も運用方法によっては、道徳を養うこともできると考えていたかもしれない。上記のような言葉を残しているのがその証左と言えよう。

 だから、韓非子も、支配する側の役人をしっかり統率すれば、庶民を直接統率する必要はないと考えていた可能性が高い。

 しかし、残念ながら、「孔子は庶民の道徳性を楽観視し過ぎている」と説いた韓非子は、君主の道徳性を楽観視し過ぎてしまっていたようだ。

 

 この法治主義の欠陥を補いつつ、その有用性を最大利用したのが、秦を引き継いだ漢帝国である。これも以前、「韓非子2000年の悲運」で紹介しているが、その時の表現では少しわかりにくいので、ここではっきりいうと。漢帝国は、法治主義の弱点である「道徳」を儒教というわかりやすい規範で補い、行政官には厳格に法を適用した。この見事なハイブリットが400年の治世を実現する。

 

4 自発的正義に補完された法治主義

 しかし、この体制にも問題はあった。世の善悪は全て儒教によって定められるわけで、信仰・信条の自由が無かった。

 第三者が規定したルールである限り、その厳格なルール適用は「非情」と捉えられるのはやむを得ないわけであり、自発的な善である「道徳」を規範する何らかの補完を行わない限り「法治主義は非情」という謗りを免れない。

 このジレンマの解決は困難を極める。韓非子は、この難問を、庶民を取り締まる行政官を厳しく統率することで回避しようとしたようだが、法は難しく、官民の距離を詰めるのには、双方がかなり進歩する必要が有るようである。少なくとも市民革命が起きた、近代以降の民度が必要だろうし、行政官にも道徳の規範となるくらいの高度な資質が要求される。非常に困難な思想である事は間違いない。

 近年、多数の国々で法治主義が採用されているが、まだまだ民衆の教育のレベルは低く、行政官の資質も低いため、その適用が強権的であったり、道徳の方は宗教などに委ねられたりするケースが大半である。だから、互いの正義が食い違い、国境を外すことができず、争いも絶えない。

 

 しかし、一国だけ、宗教に頼らず、強権力も振るわず、厳格な法治主義と高い道徳観を併存させている国が存在する。現在その成功の秘訣、あるいは起源となるものの研究中である。

 後日、本稿の続稿として投稿する予定である。

ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生

 ギリシャ神話におけるヴィーナス誕生の逸話は非常に乱暴で、ギリシャ神話特有のエロスをまとっていた。そのため、ヴィーナスの誕生と言うものは、ボッチチェリが描いたような強烈な神格化されたものではなく、19世紀に書かれたアレクサンドル・カパネルの「ヴィーナスの誕生」 の方が逸話を忠実に再現していると、以前紹介したことがある。

 しかし、「愛」という崇高な理念の象徴の誕生とするのであれば、ボッチチェリのこの作品の方が遥かに適切であろう。

 理念や思想の統合というものは、多様な意見を取り入れ、それを合意形成(コンセンサス)する高度な民度が要求される。従って、気の遠くなる、醸造と生長(胎児の発育のこと)という過程を経て、ようやく誕生するものであるから、これほどドラマティックで祝福される場面であってちょうど良い訳である。

 法治主義も同じである。その完成には、おそらく気の遠くなる年月の醸造と生育の期間を要するだろう。

 韓非子の思想を体現するという、ヴィーナスの誕生の如き祝福を受け得る国が有るとすれば、一国しか思い当たらない。

 法治主義のヴィーナスが舞い降りているその国を研究することで、法治主義は永遠の課題を克服し、「非情」の誹りを免れられるかもしれない。