孤憤

韓非子2000年の悲運

1 性善説性悪説

 この言葉についてみだりに論じようとする人は、概ね知識が浅いというのが、私の経験上の印象だ。

 性善説とは、「人間の本性は善である。」という考え方で、孔子儒教路線を汲む、孟子が唱えた説。孟子以後は儒教の中心的思想となった。

 これに対し、韓非子の師匠である思想家荀子が唱えた「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」という主張。なお、ここで言う悪とは、「弱い存在」という程度の意味であり、「悪=罪」という意味では無い。

 さらに重要な事は、韓非子は師匠のこの思想をさらに発展させ、「善」などというものは、時代や環境によって変わるもので、その時代・環境に合った規則、すなわち「法」を定めることを重要視している点である。

 よく、韓非子について性悪説を採る人と考えている人も多いようだが、これは全くの誤りである。彼にとっては、人が生まれながらにして善であるか悪であるかと言う前に「善」と言う用語自体が定義不十分なのである。(定義不十分=分別不能

 性善説性悪説を口の端に上げるなら、最低限この程度の知識は持っていて欲しい。

 しかし、現在でも書店に並ぶ韓非子に関する著書には「非情の帝王学」「情けは無用」「簡単に人を信じては行けない」といったワードが欠かせない。おかげで性悪説の言い出しっぺの荀子よりも、韓非子の方が代表者のような印象を与えているのは残念なことだ。

 確かに、彼の主張する「法律」が世の中を治めると言う法家思想においては、法律を遵守させるためには「情」はもちろんのこと忠、義、孝などと言う感情は、全てその目的を達する上で邪魔なものであり、排除すべきものとなる。その点が人情のない人間と解される事はわからないでもないが、韓非子をよく読むと、その人間観察の鋭さに感銘を受けるところが多々ある。

 彼が、人間というものをある定義に嵌め込んだ所が有るとしたら、「人は賞を受けることを喜び、罰を受けることを畏れるものだ。」という点(この概念が、外儲説篇 左下「信賞必罰」を重要視する主張につながる。そう、「信賞必罰」も韓非子由来の成語だ。)くらいで、彼は、その定義も絶対ではないと考えていたようだ。しかし、この定義、2000年経った今でもまったく揺るぎないと思いませんか?彼が否定した人情派学者の代表とも言える孔子の唱えた、当時の常識よりずっと普遍的見解だ。

 法の適用が厳格過ぎるという意見もあるが、暇があればぜひ、外儲説篇 左下_善吏徳樹のエピソードを読んで欲しい(前編:「説難」20180527_善く吏たる者は徳を樹う - 説難)。ただ厳格に適用することだけを求めているわけでないことが分かるでしょう。

 また、彼は、法の適用において貴賤を区別しない。つまり、人は法の下に平等と主張した。これは、2000年前では、とても考えられない思想である。しかも、韓非子は、継承順位こそ低かったが、一応、韓という小国の公子である。200年前でもこんな公子は存在しまい。

 にもかかわらず、まあ彼の評判は、「冷血漢」「無情」「人間不信」果ては「残酷」「無慈悲」と散々である。

 私がこのブログで折に触れて紹介しているように、韓非子55篇から引用された説話や故事成語は枚挙にいとまが無い。なぜ、これほどの名著が2000年以上も日の目を見ず、未だ悪評の的にされているのか?

 

 それでは、彼の著書が性悪説の汚名を着せられ、長年不遇の歴史を辿った理由を探る旅に出ましょう。

 

2 焚書坑儒

 そもそも韓非子は、当時常識であった孔子の開いた儒教の精神に疑問を投げかけていた。孔子のいう、礼・義・情・忠・孝などというものは、人によって思い入れが違うし、時代によって変化している。人間社会が発展して、昔は簡単に譲れたものも、今は簡単には譲れない(尭舜の禅譲)。まず、その時代における善悪を定義し、これに応じて法を定め、賞罰という二つの権力(二柄)のみを操れば、君主は孔子のいう君子でなくとも凡人でもなれる。このように、彼は論陣を展開した。

 

 これを読んで、手を叩いて喜んだ人物が居た。

 後に始皇帝となる秦王政だ。

 彼もまた、儒教の古い考え方には、変化が必要であると考えていた。

 織田信長比叡山石山本願寺を滅亡させたように、古い宗教勢力というのは、新しいビジョンを持って新世界を開こうとするものにとっては、非常に邪魔な存在である。  しかし、言うことを聞かないという理由だけで排除することはできない。

 これに答えたのが、韓非子五蠹篇だった。

 当時、儒教は、いわば絶対的規則に近いものであった。

 従って、韓非も、儒家について批判するには相当の覚悟をかけて、「古い習慣の守り神として祭り上げられているだけで、もはや時代遅れで役に立たない献策をするのみで、あたかも国という大木に巣喰い内側から食い荒らす虫である」と、痛烈に批判している。さらに、ウサギを待ち続ける男(守株)、足の寸法書を忘れた男の間抜けなエピソード等を表し、旧習を守り続けることの愚かさを論理的に提示した。

 

 そして、始皇帝は、中華を統一するや否や、法治国家の建設に乗り出す。秦そのものが、すでにかなり法整備が進んでいたので、それを地方の習慣に合わせて微調整しながら広げていくわけである。度量衡など統一できるものは、法令によって統一していった。最も進んでいたのは、統治する側の行政機構、役人に課せられた法律だった。この行政官庁網の完成度の高さが、のちに中華を支配する国家のインフラとして利用され続け、現在に至っている。

 庶民より官僚を統率することを重要視するところなどを含め、始皇帝の政策は、韓非子55篇の影響を強く受けていた事は明らかである。

 しかし、急速な世の中の変化の中で、困った人たちが居た。

 これまで、先生ともてはやされていた儒家の人々だ。

 始皇帝の世では、儒教の教えを守る必要はない。始皇帝の法を守れば良いわけで、これに詳しい者が重宝される。

 また、韓非子は、人情や義理などというものは、法律を破る理由にならない。と言っていたので、儒家たちは、世の中から、人情や義理は退廃するのではと危惧した。

 そして、織田信長比叡山のような衝突が起きてしまう。

 そして、始皇帝が行ったのが天下の悪行、「焚書坑儒」である。

 この、儒家儒教にとっての最大の悲劇を、儒家たちは、どういうわけか韓非子のせいにしたところから、彼の悲劇が始まったわけである。

 確かに韓非子は、始皇帝に心酔され秦に呼びつけられた。そして、確かに、自分の著書の解説も行ったという記録が史記に残っている。しかし、同じ史記の記述の中で、韓非子には吃音(言葉が滑らかに出ない)の癖があり、本を読む方がわかりやすいとして、面会は一回か数回に過ぎなかったという。その上、韓非の才能に自分の地位を脅かされると危惧した、時の秦の宰相・李斯(実は同じ荀子の下で学んだ兄弟弟子)の策略により、投獄され、秦が中華統一を成す前に自決している。にもかかわらず、なぜ、焚書坑儒は、彼のせいで行われたことになったのだろう。確かに、韓非子儒教を痛烈に批判しているが、儒家を悉く抹殺すべきとは書いていない。

 一つには、韓非子が残した法治国家思想、儒教の排除という思想は、実際に実行されたわけで、死んでいようが、その点では、韓非子に因果がないとは言えない。

 そして、もう一つ、あまり知られていないが、「焚書」という言葉の語源もまた、実は韓非子なのである。

 多くの文献で、焚書の語源は、始皇帝焚書坑儒だと示されているが、当時の人々も、初めて聞く言葉だったろう。

 韓非子55篇喩老篇に「焚書王寿」という言葉が有る。エピソードの内容は割愛するが、別に儒学の本を燃やせと言っている話ではない。

 しかし、始皇帝が「焚書を行う」と下知を飛ばした時、初めて聞くその言葉が、彼の愛読書「韓非子」に載っていたら、やっぱりあいつが、儒教最大の災厄の根源だということになったのも想像に値する。

 

3 儒教の国教化

 秦はわずか11年で滅びた。その理由としては、急激な社会改革、法律の厳格すぎる適用、立て続く重税と労役、始皇帝の不老不死狂い、など、様々な憶測が建てられているが、どれも人々を納得させる説は未だ定まっていない。しかし、史実として、佞臣が正統後継者を謀殺して実権を握ったことは確かで、これは皮肉にも、韓非子が最も恐れ、亡徴(国が滅びる兆候)の1に掲げたものである。

 私の私見ではあるが、始皇帝儒教の考えを断ち切り過ぎたのではないかと考えられる。農民のように学が無い者にしてみれば、儒教の説く道徳はとても分かりやすかった。それに比べ、法を守る者が正しいと言われても、その正義は国が決めたもので、自分から発した者で無いから受け入れ難かったのでは無いかと思う。

 要は、秦の法治理念は、当時の庶民には崇高過ぎて、単に厳しく取り締られているという怨嗟の念しか残さなかったのだろう。

 

 結果的に、秦は陳勝呉広の乱に代表される、農民発起の反乱から瓦解を始める。

 

 そして、これになり代わり誕生した「漢」帝国は、秦の失敗を調整し、優れた法治理念は残すものの、その厳格さを緩め、同時に庶民が簡単に実践できる儒教を復活させ、さらに、実質これを国教化した。

 庶民と言うものは、身近な人々に賞賛されるか否かによって善悪を判断するものである。儒教の教えに従っていれば、たとえ法に背いていたとしても、身近な人々からは、徳のある人(君子)として賞賛される。秦が求めた厳しい法治理念よりずっと分かり易かったのだ。かといって、治安を維持するには「法」もまた必要である。

 そこで、自発的に行おうとする正義と政権から押し付けられる正義、これを塩梅よく調整するハイブリット体制が確立されたのである。

 漢帝国は400年続き、その後も儒教を国教とする政策は、隋・唐へと引き継がれた。

 さてその間、韓非子の評判はどうなったか?

 韓非子は、「国教の天敵」、キリスト教社会でいう「ユダ」である。

 何度もいうが、韓非子儒教の全てを破壊しろとも滅亡させろとも言っていない。今風で言うと、「昭和の考えの人」を少々痛烈に批判した程度である。しかし、その古い考えの方が、成熟し切っていない庶民には居心地が良かったのだ。

 そんな時代が1000年以上も続き、韓非子は、悪名として取り沙汰されるか、その存在すら語られなくなる。

 

4 儒教の日本上陸

 隋・唐の時代になり、日本にこれらの「法」と儒教のハイブリット政策が上陸してきたが、日本の支配者たちもこれを歓迎した。

 日本では当初、仏教的道徳が珍重されていたが、武家政権が続く中で、より細かい道徳を規定した儒教を重んじるようになっていく。

 大事なことは、自発的な正義と、社会的正義のハイブリッドである。

 周囲の人に簡単に喜んでもらえる自発的正義。国や支配者に逆らわない社会的正義。後者が、韓非子が説いた法治理念なのだが、庶民においてはいつも前者が重視された。

 現代でもそうではないか、法律を真面目に守る者よりも多少違反行為を行っても、周囲に実利を与える者の方が珍重され、世の中をうまく渡っていける者も多いだろう。しかしそれは至って近視眼的思考である。

 江戸時代になるとこの信仰はさらに制度化され、階級社会の存在理念と結びつけられるようになる。それが「朱子学」である。

 朱子学というのは、儒家の中でも、偏狭でかなり独自アレンジがきつく、儒家と呼ぶのも怪しいと呼ばれている人物、朱熹(しゅき)の著作である。非常に権力者に都合の良い解釈がされているのだが、一応儒学の筋を辿るものであるから、「これを守っていれば、徳のある人(君子)ですよ。」と言われて、諸国民が250年間、法度より重視したというのだから始末に追えない。全く困ったものだ。何でも、盲目に信じているから、うまく利用されることになるのだ。

 

 こうなると法さえあれば、人々はその法の前に平等であると言う韓非子の考え方はとてつもなく危険な思想になってしまう。

 こうして韓非子の思想は埋もれ続けた。

 

 韓非の没年は紀元前233年と言われている。韓非子55篇が記されたのもおよそ同年代であろう。その価値が眠ること2200年。

 私が初めて諸子百家の本を読んだ20年前。韓非子のページは300ページのうち20ページも無かった。しかし今では30人の知名度の高い諸子百家を並べ、その中でランク付けをしたところ7位にランクインしたというサイトを見た。

 未だに、ビジネス本でしか扱ってもらえていないところが寂しいが(もうちょっと社会哲学として扱って欲しいものだが)、少しずつ彼の偉大さを知る人々が増えてきているように思う。

 

 未だ、ならず者国家が跋扈し、諸国が合従連衡を繰り広げ、国際法は国際司法が腰抜けなため名ばかりで、無法・無秩序なこの世界において、かつて、数十国がひしめいた中華を最終的に統一した思想。

 そろそろ、韓非子さんの出番じゃないの?

ツタンカーメンの黄金のマスク』 大英博物館所蔵

 ツタンカーメンの王墓がほぼ完全な状態で発見されたのには、一つの皮肉な幸運が有る。彼の父、アクエンアテンが、勢力を増す神官たちの力を弱めるため、宗教改革を行った。それまで、多神教だったエジプトにおいて、神は太陽神ラーのみであり、ラーと繋がることができるのは、国王のみであるとしたのだ。残念ながらこの企ては失敗したらしく、ツタンカーメンの若すぎる死には、暗殺の疑惑が尽きない。

 そしてこの親子は、エジプト王と認められず、歴代の王の名を連ねた王名表(カルトゥーシュと呼ばれる、王名を表す彫刻版を並べたもの)から削り取られた。そして、あらゆる歴史書から抹殺された。これが幸いして、科学が発達して、削られたカルトゥーシュに興味を持った学者がこれを解読し、消された歴史が蘇るまで盗掘の対象とされなかったわけである。

 

 韓非子の思想は、前述の通り、儒教という大きな障壁に阻まれ日の目を見ることができなかったわけであるが、中世の人々にその崇高な理念が伝わったかは疑問である。「衣食足りて礼節を知る」。韓非子の法治思想は、諸子百家に名を連ねながらも、薄く削られたカルトゥーシュのようにひっそりとその存在を維持し続け、「自由民主主義」という法律と自らの正義と国家の正義が一致する制度の登場をずっと待っていたのかもしれない。

 この運命的出現が、黄金のマスクのような輝きにつながるかどうかは、今この人物・著書を知り始めた人々の解釈次第だ。