孤憤

Article 9

1 「Article9」(アーティクルナイン)

 今年の1月から日本は国連安保理事会に非常任理事国として参加することになっている非常任理事国は、各国の各ブロックから1国が投票等で選出されるわけであるが、アジア太平洋ブロックから日本はこれまで12回選出されており、この回数は世界でダントツの1位である。さらに、今年の7月から1ヵ月行われる世界安全保障理事会の議長国となることも決定されている。

 GDPは伸び悩み世界第4位のドイツがすぐ後ろまで来ている。国民一人当たりが抱える借金の金額は、世界1位。にもかかわらず、国家のデジタル化ランキングでは驚きの26位、さらに幸福度ランキングでは54位。それでもアジア太平洋の国々、いや、おそらくアジア太平洋だけでなく、世界中の国々が日本に何らかの大きな期待をしている。

 もう昔のようにODAで他国を支援したり、工業技術で世界のテクノロジーを牽引したりするような国ではなくなった。それでも世界各国は、日本に何を期待しているのだろう?

 

 「Article9」と日本人が聞いてもおそらくあまりピンと来ないだろう。しかし国連安保理事会で、この言葉が飛び出せば、誰もが日本の憲法9条を思い浮かべる。

 冷戦の最中、なんだかんだと憲法の解釈を広げて、今では、世界ベストテンに入る武力を保持している。とかく、その点について、実情に合わせて憲法を改正したらいいじゃないか?という声が出る。

 ちなみに、ドイツは、60回もの憲法改正を重ねて、他国に自軍を配備し、自国に核兵器を配備出来るところまで進んでしまった。

 自由民主党が、「自国固有の憲法を」の掛け声のもと改憲を党是としていることを知っている人も多いと思うが、なぜ、自民党はほとんどの期間、政権をとっているのに、「自衛隊」を「日本軍」に改称することすらできなかったのだろうか?

 衆参両院で3分の2の賛成が必要という改憲発議条件が厳しい?そうでもないんだよなあ。その気になれば、よく見る議席の円グラフの分布なんていくらでも操作出来るものだ。本当はあの円グラフの分布がいつの間にか、選挙結果と変わっていたら、「おかしい」という声が上がるだろうが、今の国民にそれが期待できるかは甚だ怪しい。

 国民投票過半数が取れるかが難しい?確かに戦中派が影響力を強く持っていた頃ならそうだったかもしれないが、平成世代の意見としては、どっちでも良いか、むしろ、改憲派寄りのように見える。実際、徴兵制なんかが始まったら、戦場に送られるのは、彼らや、彼らの子供なのにね。

 というわけで、自民党はこれまでも、多少小細工(根回しと強行採決の連発)を使えば、憲法を改正できたと私は考えている。

 しかし、彼らは、圧倒的有利な状況になる日をずっと待った。なぜか?

 

 これが、「Article9」の魔法だ。

 自民党が恐れているのは、もはや、政治に無関心になったどころか、平坦なGDPに甘んじて、車の免許すら取ろうともしなくなった自国民ではなく、今まさに、眼光をギラつかせて、GDPを引き上げているアジアの諸国民である。

 日本が再軍備することについて、アジアの隣国は、かつての侵略戦争を引き合いに出し激しく非難した。にもかかわらずなぜかこの間も、日本は国連安保理事会の非常任理事国に選出され続けた。アジアでは、日本のある姿勢に感銘するところがあったようである。

 1990年、湾岸戦争の際、国連加盟国が多くの軍人を出す中、日本からは1人も軍人を出さなかったため、「金しか出さない日本国」と揶揄されたと、国内のメディアは大々的に報道していたが、これにより、逆に世界では、アジア人が日本を評価するある姿勢の源である「Article9」という言葉が囁かれ始める。

 「なんだいそれ?」「もう50年も守っているそうだぜ。」「何度、政治家が説得しようとしても国民が許さないんだって。」

 アメリカが日本に要求しそうな事はみんな知っている。日本は、何度もそれをArticle9ではね除けながら、それでも、国際平和に貢献する道を模索している。

 ドイツのように改憲したら簡単なことだ。でも、日本は変えない。だから、その道は険しく、活動範囲を広げようとする度に議会は紛糾し、知恵を絞り出す。

 結局武装はしてしまった。でも今のところ、威嚇も使用も自衛以外の措置では行なっていない。集団的自衛権などを認めてしまったら、果たしてどれほどその信念を曲げることになるのだろう?でも、我が国は、この鎖を持ち続ける。ある時、その力が暴発したり、目的外に使われたりすることがないように。ひた向きに、この重い鎖を引きずりながら、アメリカとキリキリの鍔迫り合いをしている。

 その姿を、隣国だけでなく、欧州や中東も認め始めている。

 もうじき日本はこの宣言を守ること80年となる。これこそ、世界平和遺産に指定されてもおかしくない。だんだん、日本の9条ではなく、世界のArticle9になってきている。

 アジアの隣国は明治からの日本を見て知っている。この国は、二つの道が有れば難しい方を選ぶ。SoCoolなのだ。

 だから、安保理事国にも12回も選出されるわけだ。

 日本なら、安易で多くの民が損をする策よりも、難しくても多くの民が末永く幸福を得られる策を選ぶ、またはその策を捻り出す、と。

 

2 戦争は無くならない?

 先日、友人に、11月15日投稿の日朝国交回復からの、中国包囲策について意見を求めたところ、「そんなことしても、余計に相手を刺激することにならないか?」「まあ、武器を使わずなるべく友好と連携で国際紛争を解決していくことは正しいと思うが、ウクライナの戦争にしたって、報道ではまるでロシアが一方的に悪者のようになっているけど、ウクライナも国内の親ロシア派を迫害していたという問題があるんやで。」「要するに、争いの種というのは常になくならない。イコール戦争は無くならないってことちゃう?」

 「だから、その紛争の解決方法が何で絶対西部劇の決闘やねんと、俺は言いたいねん。」

 若い方々のために西部劇の決闘と言うものがどういうものか説明しておこう。

 アメリカ西部開拓時代、土地や採掘等の権利をめぐって個人同士や集団同士が争うことも何度かあった。西部の荒野はほぼ無法地帯、当然裁判所もろくに機能してない。そこで「決闘」と言う形で決着をつけたものであった。その方法とは、最初に背中あわせに立ち、両方が反対側に1歩2歩3歩と歩き3歩目で振り返り、お互い銃を抜いて撃ち合う。被弾してより大きな怪我を負ったもの、あるいは命を落としたものの負けである。なんでわざわざ背中あわせになって歩いて振り返り撃ち合うのか?それは背後から撃つ事は卑怯であり、向かい合って撃ち合えば正当防衛が成り立つわけで、殺人罪にはならないからだそうな。めちゃくちゃ無法地帯なのに、不思議と法律を守っているところが面白い。

 今、まともな先進国で、こんな方法で民事訴訟を解決しているところが有るか?

 私にしてみたらウクライナの戦争なんてこの決闘を、規模を大きくしただけの愚か極まりない戦いだ。なんで裁判で決着をつけないんだ。どっちも1度は先進国と言われたソ連の一員ではないか!基礎教育を受けてんだろう!

 

 Article9の「国際紛争の解決手段としての武力行使は放棄する。」という思想は、別に日本国憲法9条が発祥でもないし、日本だけが持っているというものでもない(例:コスタリカ)。9条が制定される20年以上前から世界のトレンドとなっていたフレーズだ(1945年にアメリカに押し付けられたと言っている人に言っておくが、日本も1928年自分から宣言している)。しかし、この時はまだ早過ぎた。世界には支配する者と支配される者がおり、万民が平等ではなかった。しかし、第二次世界大戦以降、世界は新秩序の時代に入った。未だに紛争を続けているのは「ゴリラ」だ。

 日本国内では、憲法9条は世界秩序が未熟な現代には早過ぎたという人も多いが、私は、「ゴリラ」どもが遅れていると思っている。ただそれが蔓延っている事が現実であることも確かだ。しかし、今の時代に合っている思想は、本当はこっちであり、その現実は転換しなければならない。

 

3 ゴリラにシューズを

 この思想を、坂本龍馬になぞらえて、「シューズ」に置き換えて考えてみよう。

 よく聞く逸話だが、二人のシューズの営業マンが命令で行かされた国では、みんなが裸足で暮らしていた。1人の営業マンは、「こんなところでシューズが売れるわけがない。」とふさぎ込んでいたが、もう1人の営業マンは嬉々としていた。「おい、ここでシューズの便利さ・素晴らしさをわからせることが、できれば俺たちは大儲けだぜ。」

 日本人は、もう80年近くこのシューズを履いている。かなり重い物だが、長い間身につけていたから、使い方(ノウハウ)は、かなり習得している(はずだ)。「大丈夫。これを履いていればこんな世の中でも襲われることはない。いや、同じシューズ仲間として守ってあげるよ。今まで培った知恵と友好でね。」

 この一言で、かなりArticle9シンパが増えると思うが、さらにこれを効果的にするためには、シューズを持った者がいかほどのものか見せつける必要が有る。

 そこで提案なのだが、せっかく安保理事長国になったんだから、ウクライナ紛争を解決しちゃうというのはどうだろうか?(正直、私如きの才では完全な戦略は建てられていないのだが)

 まず中国だ。私には良い案は浮かばないが、何かこの紛争を解決して得になる道を絞り出す。中国は、台湾情勢のことも考えれば、なるべくこの件には携わりたくないはずだから、どんな土産を用意するかが知恵を要するところだ。

 しかし、中国が動いて仲介役になってくれれば、停戦は確実に成る。

 さすれば、後は終戦条件を国連の席で話し合い。これは多分そんなに難しくない。どうせ両国とも、出口探しに困っているのだから、国連の言いなりだ。まあ、親ロシア派の領土の割譲を条件にNATO入りを認めさせるというところが落とし所でしょう。

 世界の80%がシューズを履いたら、ゴリラは裸足でいられるだろうか?自明でしょう?

 日本人という民族は不思議な民族だ。このゴリラの檻の中で、無茶振りとも言えるこんな重い鎖を80年近く引きずり続けた。私は、これを誇りに思うと同時に、ぶっちゃけこのままゴリラどもがいつまでも新秩序を否定し、ゴリラの世界を続けるなら、一人くらい人間として、侵略されて滅亡する国があっても良いくらいに思っている。

 100年後には、称賛の的となって年表に刻まれるだろう。

 12回も世界の平和を構築するための委員に選ばれているのなら、一度それくらいの覚悟でゴリラどもを説得してもらいたいものだ。

クロード・モネ『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』

 印象派の巨匠で、光の本質を追い続けたことから「光の画家」の称号を持つ、クロード・モネ。彼は熱心なジャポニズミスト(日本画および日本文化に魅了された芸術家)で、晩年の邸宅に大規模な日本庭園を構築し、それを描き、おびただしい量の作品を生み出した。しかし、その作品群はまるで何かを探究しているようにも見えた。
 直接文献は残っていないが、彼は日本の何が自分をこれほど惹きつけるのかそれを探究していた節がある。

 彼が答えにたどり着いたかは不明であるが、この太鼓橋と睡蓮の絵画を見れば、日本人の私には一撃でわかってしまう。

 「大胆さと静謐の共存」

 ワールドカップのサポータが示してくれた通り、日本人というのは、争うときはとことん争うが、それでいて清廉で静謐なところが、Bravo!なんだよね。