孤憤

天下の大事は必ず細より作こる(韓非子:喩老篇)

1 Destiny

 「どうしてなの?🎶今日に限って🎶安いサンダルを履いていた🎶」

 科学的に考えれば、全ての事象は確率によって支配されている。

 全ての結果には原因が有り、この因果関係を逆手に取ると、とある結果を求めるのであれば、その原因を造れば良いことになる。

 自分を振った相手に再び会ったとき、「惜しいことをした。」と思わせ、見返してやろうと思うのであれば、常に、身なり服装に注意を怠らないようにしていれば良い。

 安定した将来を求めるなら、良い大学に入れるように勉学に努めれば良い。

 しかし、サンダルを履けない生活はとても窮屈だ。多感な青春時代を勉学だけに投じることは、人生全体から考えるとマイナスのような気もする。

 従って、完璧な原因を築くことはできないわけであり、結果は確率に委ねられる。

 受験の場合、いろいろな方法で合格率なるものを計算してくれるので、ある程度自分の努力の過不足を予測することができる。それでも確率の範囲は超えておらず、100%ということはあり得ない。

 月に1日くらいサンダルを履く日があったとしたら、その日に元カレと出会う確率は約3%あるわけで、見返すことができる確率は100%ではない。

 従って、どのような不運な事象も確率論の上では間違いとは言えないのである。

 

 しかしながら、やはり、どう考えても納得のいかない事象は起こるものである。そして、幸運というものは、当事者の努力が幾らか作用しているように感じられるのに対し、不運というものは、無関係な第三者の不可思議な関与が絡むことが多いように思う。

 恋路などを例に挙げるとその兆候は顕著だ。ばったり会ったり、二人きりになる場面ができたりするといった幸運の方は、互いが好意を持っているから起きやすい。それに比べ、不運の方は、かなり無理があるような事が平然と起こる。人目に付かないタイミングを見計らって、勇気を振り絞って声をかけ、ようやく二人で話せる機会を得たというのに、ほとんど付き合いも無い知人にばったり会い、なぜか、挨拶だけでは去ろうとしない。とか。詰まったコピー機を直して、爪の先が真っ黒な日の夜の飲み会で、わざわざ回り込んで隣に座ってくれたり、靴下に穴が空いていたり、不運は、それを引き寄せる因果は何も存在しないのに起こる。

 努力したのに、あり得ない少数確率を引く。世の中はままならず、確率論ではあまりにも不可思議な事象、人はそれを Destiny(運命)という。

 恋路や受験なら、まあ幾らか修正が効くものだが、生死・五体に関わるとなると、英語で気取ってはいられない。

 

2 神仏

 私は生粋の合理主義者であるが、神仏の存在や運の良し悪しを信じる。

 前項の通り、その存在無くしては説明も納得もできない事象が世の中に溢れていることは否定できないし、体験もしている。むしろ確率論に準じた前項前半で示したような、当たり前の計算の方が虚しい努力のように感じる事すらしばしばである。

 ひねくれた私ですらそう感じるのだから、素直に思考する普通の人たちが、有り得ない不幸に見舞われ、確率論的努力(すなわち理性的計算)を見限り、神仏に助けを乞うということは、容易に理解できる。

 

 ただ、私のいう「神仏」は信じたり、祈ったりしたからといって、自分たちに有益な結果をもたらしてくれるとは限らない。 私の考える「神仏」とはまだ解明されていない何らかの意識を持ったエネルギー体で、確率上起こるべき事象(因果)を捻じ曲げる力を持っているもの。という程度だ。わかりやすくいうと、この宇宙には透明生物がたくさん存在していて、そいつらが因果を変化させている可能性があるということだ。

 

 量子力学や、宇宙の成り立ちを究明しようとする学者たちの報告は、年を追うごとに、理解不能で不可思議で、もはや究極の秩序を追っているのに、その答えは無秩序(何でも有り)になりつつある。従って、透明生物が存在し、因果を捻じ曲げていると言っても、バカにできる学者は居ないだろう。

 しかし、そう考えると、一生懸命神仏に祈りを捧げている人たちは哀れだ。私の考えた神仏には、慈悲の心も、そもそも、人語を解するかすら怪しいわけだからだ。

 悪いが、祈ってひれ伏せば、不運から守られるというのは誤りだ。それに頼って最大限の努力を怠れば、不運の確率はむしろ上がる。

 

 成功する者は、不運に見舞われた時、自省を始めとし、要因を検討するというが、私も含め、凡人はそこまで理性的ではない。確率論から外れた考えられない不運に見舞われると、何よりもフラストレーションが抑えられない。「せっかくあれだけ努力したのに。」「私が一体何をしたと言うのだ。」これらのフラストレーションを何かに転嫁しなければ精神的バランスが取れない。そこで矛先となるのが「神仏」だ。

 

3 信仰

 日本人は無宗教だと言われるが、寺社仏閣に対する敬意、神仏に対する畏怖の念は他民族に引けを取らない。初詣に行ったことがないとか、神仏に懇願した経験が無い日本人もおそらくほとんどいない。中年男性の腕につけているパワーストーンの普及率は、もはや民族衣装かと思うほどだ。

 

 さて、信仰の目的とは何か?

 私を含め日本人の場合言えることは、何らかの幸運を求めるか、謂れの無い不運に見舞われないことであり、悲しいことに、後者の理由が圧倒的に多いだろう。

 確率論上あり得ない不運に見舞われた時、人は理性を保つために、それは神仏の仕業であると考えるのである。逆に、成功を重ねている者は、基本的に努力が実を結んでいる訳であるから、世の中が確率論的である方が都合良いのだが、周囲にはどうしても納得のいかない不運が転がり過ぎている。だから、パワーストーンを巻いて、己の努力が確率論通りの結果を表してくれる事を願うのだ。

 

 しかし、ある意味信仰は便利過ぎて、過剰になる傾向がある。努力もせずに成功を願うとまでは言わないが、よくよく考えれば、自分が不運の因果を引き起こしているのに、神仏のせいにして、安易にフラストレーションをなすり付ける。題目を唱えていれば、いくらか気分が楽になる。それを西洋では「救われる」というのだ。

 

 実はちっとも救われていない、己が努力を怠る言い訳に利用しているだけだ。

 

 しかし、信仰は悪いものではない。真面目に取り組めば、宗教というものには、己を律するヒントがたくさん散りばめられているから。ただ、深く因果を考えず、安易に神仏のせいにすることは危険だ。人生万事塞翁が馬、それは、明日の成功のための試練かもしれない。特に、若い人は、可能性が有るわけであるから、一度や二度の不運は、むしろ追い風さ、と乗り切ってもらいたい。

 

4 争いの権化

 さて、いよいよ本稿の本題に入る。

 これまで話してきたように、私の考えでは、神仏と言うものは、信じたところで、祈ったところで、人語を解しない透明生物のようなものであり、少なくとも、決して慈悲深くはない。いたずらに、人の運命を惑わし、無駄なフラストレーションを生み出し、これを集めて、膨張するという不気味な悪循環を作り出している。もしかしたら、それが目的のエネルギー体かもしれない。そう考えると背筋が凍る。世界中の人たちが、謂れの無い不運に見舞われる度にそれを引き起こす不気味な生物を膨らませているということになるからだ。

 そのロジックから戦争を見てみたらとんでもないことになっていることがわかるだろう。フラストレーションをかき集めて膨張した信仰と言うモンスターが互いに争い、相手を傷つけ、互いのフラストレーションをさらに高めている。

 私は、「惨劇や悲劇を報道し、人々の感情に訴えても戦争は止まない。理性的に考えれば、 戦争で利益を得るのは武器商人か機関投資家ぐらいで、命の無駄遣いだ。」と、ずっと主張してきた。

 しかし、昨年のウクライナ侵攻から先日のパレスチナガザ地区の紛争などを見ていると、どうにもいくら損得勘定を説明したところで無駄であることを確信した。

 

 ハマスを操るロシアの思惑は見え見えだし、その思惑通りイスラエルは世界を惹きつけ、ウクライナの報道は全く届かなくなった。そのお粗末さを見るにつけ、こいつらはただ、日々の暮らしの中で起きる謂れ無き不運、いやもしかしたら、きっちり因果のある不運まで、まとめて固めたフラストレーションをぶつけ合っているだけじゃないのか、と疑念を持ったからだ。

 

 わずかな領土や利権の争いが戦争に発展するのには理由が有る。主に、歴史的背景、人種、偏見、不平等、政治体制の対立などが挙げられる。

 しかし、これらは思考により生まれたものであり、実態はなく、また互いに優劣もない。従って争う要因とは言えないのである。しかし、日々の欲求不満、フラストレーションがそれを「信仰」とし、やがて「正義」とし、ゲームでゾンビを撃ち殺すように、現実の人間を撃ち殺すことに免罪符を与えている。

 

 本当の争いの権化は、武器商人でも、機関投資家でもなかった。

 

 本稿で語ったロジックを直線で結べば、争いの権化は、「その日に限って安いサンダルを履いていた」という、確率論的にはあり得ない不運ということになる。

 

 

 しかし、ChatGTPは、私のこのロジックを否定した。

 「それは、裕福な先進国に生まれた人間の主観です。」とまず一喝。

 

 「育った環境や社会の背景によって、人々が驚くフラストレーションや問題は違います。裕福な先進国と比較して、経済的に不安定な地域や社会では、問題に対するアクセスや解決策が制限されることがあります。異なる状況にある人々の経験や視点を冷静に、共感することが、より多様性を内宮できる社会を築くための一歩となります。」

 

 確かに、この指摘は痛烈で、当事者の立場になって考えていないと言えばそういうことになる。この点修正はすべきかと思う。しかし、彼らの立場に立つと、そのフラストレーションは、生死に関わるものであり、私のロジックからすると、もっと強力なモンスターを潜在させている。つまりそこは、マッチ一本火事の元なわけだ。

 

 そして、双方の陣営に、関連は有るものの、安全なところから観戦している者がかなり居る。そして彼らの方が、おそらくそのマッチを握っている。

 踊らされる阿呆に踊らす阿呆だ。

 「カイジ」という漫画で、貧乏人達に命懸けの綱渡りをさせて、失敗するのを喜んでいる気色の悪い人たちと同じだ。

トゥールーズロートレック
「Rousse (La toilette)/赤(化粧室)」

 ゴッホドガゴーギャンなど、ポスト印象派と言われる画家の一人。ロートレックの名を知らなくても、「ムーラン・ルージュ」という言葉なら知っている人は多いだろう。彼の代表作である。

 先天性の障害により、両足が常人の半分の長さしかなかったことでも、彼は有名である。本稿において、五体に関する不運という表現を使用したが、身体障害者を蔑視する意思はない。また、本稿の挿絵として彼の絵画を紹介したのも、身体に障害があっても素晴らしい才能を持つ者もいるなどという、知ったかぶった事を言いたいわけでもない。

 

 私は彼の作品に在る、華々しいムーラン・ルージュダンスホールとは裏腹の、貧困の末、当時のフランスでは最下層の者が従事していたと言われる娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちの、フラストレーション的な一面、そのありのままの姿の描写に添えられた次の言葉を紹介したかったからだ。

 

「人間は醜い。されど人生は美しい。」

 

 私は、豊かで自由な国に生まれながら、その当たり前を得るために命懸けで戦い続ける人々のことを、結局はただのフラストレーションのぶつけ合いではないか!と断じてしまった。しかも、その過ちをAIに一喝された。

 しかし、私はそれでも、努力不足を安易に信仰に転換する危険性を指摘したい。また、戦場の当事者達も、自分たちを操っている人々の無責任を想像して、それこそこちらの立場に立って自分たちの姿を見てもらいたい。自らの知的レベルの低さを実感し、身なりは窮屈でも、もう少し美しい人生を得る方法があるのでは、と考えて欲しい。

 

 人間は醜い、しかし、されどもう少し利口なはずだ。