孤憤

初心者でもできる!青色申告で年間30万円の節約(前編)

 コロナ禍により蓄積された潜在的消費性向、記録的猛暑、そして18年ぶりのタイガースの優勝も重なり、世はまさに空前の好景気を迎えようとしている。
 にもかかわらず、経営者たちは、利益の労働者への還元こそがさらなる利益の増加につながるという資本主義の大原則を忘れ、証券取引所からの「君たち安全運転が過剰!」に対し、自己の株主だけを守る戦術で、まだ逃げを打っている。
 こんなシブチンたちは、いい加減見限って、独立して事業者になった方が報酬は上がるのだろうが、ここに、税金・国民健康保険税(以下保険税)が立ちはだかる。
 私は故あって、少年時代より、経理が商人を助けると信じてきた。
 そして、会計ソフトの飛躍的進歩を受けて、最低限これだけの努力と記録を残せば、約30万円の節税ができるという確信に至った。
 インボイス導入で、さらに個人事業者への負担が増すことを鑑み、満を辞してこれを紹介する。
 なお、今回の投稿は、長文につき二部構成とする。

 前編は、細かい根拠や理屈はすっ飛ばして、「とにかくここに書いている通りにすれば、憎たらしい、国保税や税金を30万円減らすことができる。」というメソッドのエッセンシャルトピックスを語る。
 しかし、それでは信頼性や実効性に不安を感じるのは当然であろう。そこで後編では、このメソッドが持つバックボーンを語るとともに、前編が詳細を割愛する分、実践段階におけるさまざまな小問題(小石)の退け方も説明する。

 とにかく、前編の分量は多い。前書きはこの辺にして早速本題に入ろう。

1 青色申告特別控除


 記帳義務を課す代わりに、純利益から10万円の控除が受けられる。
 さらに、複式簿記を使って、貸借対照表を作成し、電子申告で提出すれば、65万円の控除が受けられる。
 仮に20.42%の所得税がかかっている人の場合、住民税10%、国保14.81%(大阪市)、合計45.23%の国民負担率であるから、65万円控除すると、29万円超の節税になる。
 その道は一見険しいと思われるかもしれないが、私は会計ソフトの特性を活かして、最少努力・最短ルートでこれを達成するメソッドを考案した。
 しかし、これを達成するには、事業主が本気になって、必要な記録を残し、あるいは収集してくれなければならない。そこで、以下の話を聞いてもらう必要が生じる。

2 記帳レベルのPhase


Phase0 期末ドタバタ集計
 一般的な開業間もない個人事業者の収入源は、1箇所から3箇所程度。これらを集計して年間の「売上」を割り出すことはエクセルも要らない。
 問題は、とりあえず「経費になるかもしれい。」と考えて、とっておいた領収証の整理と、カードで支払った経費の振り分けだ。
 事業初心者の9割以上がおそらくこの作業を、年末から確定申告期限の3月15日までの間に行う。そして多くの人は、仕事を優先して2月以降にこれをはじめ、何をどうしたら良いか分からず税理士に泣きついてくる。
 税理士だって、2月以降に入ると、扱い一つで数十万の税金が変わるような相談を抱えて、そんなおサボりさんを相手にしている暇は無い。「どうせ合計しても事業者に認められた最低経費55万円(家内労働者特例)には満たないのだから、そっちを使っときましょう。」で終わってしまうだろう。
 あなたが、とりあえずとっておいた領収証は、この場合全く無駄になる。
 開業初年度はそんなところで良いかもしれない。少なくとも「事業所」と言われるだけの設備を持たない限り、55万円を超える経費を積み上げるのは難しい。家の一部屋を事務所にしていると主張するおこがましい人をよく見かけるが、せいぜい経費に認めてあげられるのは、パソコンとプリンタ、及びインク代くらいだ。
 しかし、人に給料を払ったり、仕入れを行ったりしている人は、55万円の家内労働者特例も受けられない。それどころか、「決算」というプロの領域が入ってくる。年内には、税理士に相談しに行っとかないとかなり痛い目を見ると思った方が良い。 
 Phase0と示したが、こんなドタバタ劇を、2年目も3年目もやっている事業者は、まず成功しない。サラリーマンより苦しい重税と保険料を抱えて、一生家畜小屋から脱出することはできない。
Phase1 単式記帳
⑴    現金支払い経費は領収証が無いと経費に認められないと、コンビニでも領収証の発行を求めている可哀想な事業者を見かけるが、事務用品、取引先に持ち込んだ手土産代なんかは、レシートで十分。これらを、残す理由は、税務署に見せるためでなく、自分が後でそれを足し算するためだ。
 さて、その足し算の方法だが、さっきも言ったように、財布に溜まったレシートをさらにビニール袋や、お菓子の空き缶に集めておいて、年末に振り分けているようでは、アウトだ。
 アウトというのは、税法的にアウトというわけでなく、これからインボイス制度のもとで戦っていかなければならない個人事業者としてアウトということだ。
 Phase0からの脱出方法として、私が個人事業者に勧めてきたメソッドが、「カレンダー記帳」だ。カレンダー式の手帳というのが百円で売っている。スマホのカレンダー機能でもよい。 財布に溜まったレシートを領収証保管用のお菓子の空き缶に入れるとき、その日付欄に、支払先と金額を書き込んでから入れる。
 こうしておくと、年末に空き缶を開けて、領収証の塊にうんざりすることはほとんどない。支払先名で大体なんの経費か(経費科目)は、想像つくだろう。さらに言えば、月1回くらいは、経費科目ごとの集計をして、月末日か、月別の余白があればそこに、⑪交通費〇〇円、⑭交際費〇〇円、⑰消耗品費〇〇円と書いとくと、記憶も確かだし、年末かなり楽になる。 なお、この⑪⑭⑰は、青色決算書の記入欄番号で、現金支払い経費の代表格である。
⑵    銀行取引とカード払い取引は明細をスクショ
 昔は、マメに通帳記入に行くか、まとめ記帳されたら、銀行に明細を請求すればよかった。今は便利と言うべきか面倒と言うべきか、ネットを使用して自分で調べることになっている。しかも、掲載期間が2ヶ月とか90日とかやたら短い。
 しかし、取引日・取引内容・取引金額が、ほぼ公的に証明された記録である。月に一度明細を開いて、スマホならスクショしておくだけで、前述のカレンダー記帳以上の情報と証拠を押さえることになるので、最低限やった方が良い。
⑶ 月別集計表
 カレンダー記帳と、スクショを集めたら下図の月別集計表を作成する。

「月別集計表」(Excelが有れば最適だが、ネット上に色々な雛形が紹介されている)

 個人のフリーランスを想定して説明すると、銀行取引については、①得意先からの報酬の入金、②各種引落:携帯電話料金他通信費、水道光熱費、地代家賃、損害保険、生命保険、健康保険、税金、③カード払いの引き落とし、④現金の引き出し、の4つに分けることができ、どれをどの欄に入れたら良いかは、日本の義務教育を受けている人なら、まあ大体わかるだろう。ただ、例えば、水道光熱費や地代家賃はここに載せて良いのか?といことになる。 これは家事関連費と言って、自宅の一部を事務所とする「自宅兼事業所」とした場合、その事務所部分にかかる者は経費に認められる。しかし、前述した通り、フリーランスレベルで、事務所経費が認められることは難しい。
 生命保険や健康保険は、まず書くところがないが、生活費なので無関係。損害保険料は、事業用車両もしくは、事務所兼自宅とする場合に計上する。
 カード払いについては、カードの請求明細(これも、毎月ダウンロードしてスクショ)から、同じように、生活費と経費に分けて、経費となるものは、これと思われる欄に書き込む。
 なお、これまでスクショで残してきた、取引は、正しくは紙として出力して、保存することが義務付けられている(これを省略できるのが電子帳簿保存法だが、そんな話は大企業だけがやっていれば良い)。どのみち、どれとどれを計上したかわからなくなるので、コンビニで出力して、経費計上分は、フリクションペンで、マークする(なんでフリクション?このチェックをやる人かどうかで、次のPhaseに行けるかが決まるのだが、初心者が1発で揃えられるほど簡単な作業じゃないから)。
 次に現金取引の書き込みに入るのだが、ここで⑴のカレンダー記帳の各月末にその月の合計を書いていた人は、かなり楽であることがわかるだろう。
 これで、登場人物は勢揃いしたことになる。
 総売上から経費の合計を差し引けば、単式記帳による所得金額の算出が完成する。(上図の集計表では、特別控除前所得と書いている欄。) これがPhase1だ。青色申告控除額は10万円。節税額は、45,000円。

Phase2 会計ソフトの導入(複式簿記
 私は、可能な限り省エネルギーでPhase0の不幸な方々に、適正な貸借対照表を作成させ、65万円控除、推定節税額(29万円超)へ導きたいと考えている。もしPhase1の段階で、出来そうにないと考えているなら、私にはその人を救うことはできない。
 ⑴ 複式簿記
 さて、65万円に向かうには、「複式簿記」という言葉を理解することが避けられない。
 Phase1のように、「入ってきたお金から、出ていったお金を引いたら利益が出る。」という単純な考え方を「単式簿記」という。最近の若者は便利な言葉を知っているので説明しやすい。。よく、フローとかストックとかいう言葉を聞いたことがあると思うがが、単式は、このフローだけを見ていて、その結果どのくらいのストックができたかを考えていない。
 1年間働いて、いくらいくら利益が出たようだが、その金はどこにいったのか?その金額通り貯金が増えていたら良いのだが、そんな人はいない。まあ、ただ少しでも預金が増えていたら、ストックが増加したということだ。借金が減ったというのであれば、これは負のストックの減少。しかし、最も大きな振替先は生活費だ。預金も借金も別に減っても増えてもいないが、手元に何も残っていないのは、全て生活費に消費されたからだ。そして、それがごく一般の人。
 では、「消費」というのは、なんなのか?一見お金が出ていくのだからフローと思いがちであるが、個人事業者の複式簿記の世界では、これらは、事業主に貸し付けた「事業主貸」というストックになると考える。
 この辺りが難しくて、大方の事業主は脱落してしまうのだが、難しいことは考えなくて良い。生活費=「事業主貸」という発想だけを頭にねじ込めば良い。
⑵ 会計ソフト
 複式簿記を行う場合は、例えば、交通費を支払ったとしても、それは、現金で払ったのかカードで払ったのか、つまりどのストックを減らしたのかという「相手勘定」というものをいちいち求められる。これを、商業高校で簿記を習ったことのない人間に仕訳させることは相当エネルギーが必要である。
 じゃあ、素人が会計ソフトを買っても使えないじゃないか?
 そこで私は、仕訳が分からなくても、そして、可能な限り省エネルギーで会計ソフトを活用するメソッドを考えた。

⚫︎ 預金出納帳(よきんすいとうちょう)
 会計ソフトは、銀行取引を最初に入力せよ!
 どの会計ソフトにも、普通預金元帳、または、預金出納帳という画面がある。ここに、金融機関から取り寄せた取引明細に書かれている通りに増減を入力する。振り込み入金の相手勘定は、「売上」、通信費の引き落としなら相手勘定は「通信費」。
 水道光熱費や家賃など、経費にならない引き落としは、生活費である。ここで、前述した、生活費=「事業主貸」」というルールを適用する。
 なお、現金引き出しや入金は、売上でも経費でもないので相手勘定は「現金」。
 ちょっとややこしいのがカード払いの扱いだが、1行に書こうとするから無理がある。下図のようにカードの明細通り入力して、引落額を一致させれば問題ない。

(カード払いについては、後編でも詳細を説明する。)

⚫︎ 現金出納帳(げんきんすいとうちょう)

同じ会計ソフトの「現金出納帳」画面を開く

 預金出納帳を入力してから、「現金出納帳」画面に移ると面白いことが起きている。上図2月6日の取引に注目して欲しい。預金出納帳で記録した現金引き出しが反映されている。これが、会計ソフト最大の武器「自動転記」だ。

 この機能のおかげで、シンプルな事業者なら、預金出納帳と現金出納帳の入力だけで、青色65万円申告に必要な、複式元帳・財務諸表が自動的に作成されるのだ。
 それでは、銀行引き出し以外の現金取引を入力していこう。
 ここで、カレンダー記帳で記録している経費を打ち込む。
 会計ソフトのもう一つ良いところは、勝手に日付順にしてくれるとこだ。だから、カレンダーに載せ忘れた領収証や、奥さんに渡した生活費など領収証の無いものも、日付通り入力すれば、日付順にしてくれる。
 そうすると、引き出しては手持ちがなくなり、また引き出すという流れが面白いように見えてくる。妙に膨らんだり、マイナスになったりする日が有るようなら、その原因を考えた方が良い。何かが間違っているということだからだ。(この違算箇所探知機能も会計ソフトならではである。)

 なお、ここで理解しておく重要なことがある。生活費に使った現金の相手勘定は、やっぱり「事業主貸」であるということ。
 前述の預金出納帳で、収入が入った直後に生活費120,000円が引き出されている。これも、現金出納帳の現金増に反映されているが、その日のうちに奥さんに渡してしまうので、「事業主貸」120,000円を計上し、現金残高を減らす必要がある。
 預金出納帳にわざわざ(生活費)と記入したが、預金取引明細にそんな言葉は載っていない。自分で区分する癖をつけることが重要である。また、事業用として引き出した60,000円は、財布を分けて、事業経費以外には使わないようにする。それでも急な要件で、生活費として消費したときは、また「事業主貸」として計上する。

 だんだんわかってきてもらっているかもしれないが、個人事業者にとって、複式簿記の難しいところは、生活費を「事業主貸」として仕訳することなのである。逆にそれさえできれば、難しいことは会計ソフトが全てしてくれる。

 最後に、法律上は毎日だが、月に一回で良い。事業用の財布の現金残高と、会計ソフトの現金残高を照合すること。そして双方に差額が有れば、「事業主貸」を相手勘定にして、会計ソフトの残高を財布の残高に合わせる。ここで重要なのは、“必ず、実際の現金残高に、会計ソフトの残高を合わせること”。現金の方を減らしたり、足したりしてはいけない。
 会計ソフトの残高は、あくまでバーチャルで、目の前の現金がリアルだからだ。

 以上でPhase2はクリアーだ。シンプルな個人事業者なら、この時点で、65万円控除に必要な、複式簿記貸借対照表の作成はクリアーしている。後は、会計ソフトの電子申告機能を使用して、確定申告書を作成し、送信すれば、29万円超の節税は成功する。 

 本来、Phase3「決算」というのがあるのだが、決算は、事業所を持っていたり仕入を行ったりする業者において問題となるものなので、後編で話す。

 うーむ、これだけ絞っても、6000文字かぁ。やむを得ん。言い足りなかったことは後編で話そう。

記帳指導説明会資料「記帳なし」から「貸借対照表」へ

 とある、開業者や記帳初心者向けの説明会の前説で、記帳のメリットを説明するために配付された資料。

 

ChatGPTと「惻隠」について議論してみる

1 唯々諾々(いいだくだく)−韓非子_八姦篇

 まぁ、いわゆる「言いなり」と言うやつであるが、これも韓非子の出典である。

 あまり良い用語として使われないのは、実際に主人の言うことを鵜呑みにして全く反論をしない状況は、主人にとっても従者にとっても不幸な関係であるからである。

 日本人はとかく争いを避け、穏やかで秩序に従順な民族であるとよく称賛されているが、それが実際事実であるならば、私などは、それは単に長いものに巻かれ、権力者や空気というものに唯々諾々と従っているだけなのではないかと感じたりする。なぜなら、日本人の従順さには、どこか自らのアイデンティティーや個性、場合によっては生命すらも軽視する傾向があるように感じるからである。

 私のこのような思考実験の相手は、これまで、もっぱらインターネット上の情報とのやり取りであった。しかし、最近なかなかに歯ごたえのある回答をしてくれる話し相手ができた。

 

2 ChatGPT

 最近何かと話題のChatGPT。 たかがAIに前述のようなセンシティブな思考や感想について相談したところで、的確な回答を得られるのかと言う疑問を持つのは当然である。

まずは、前述のような感想について相談した、1つの対話を見てもらおう。 

 

>以下は、先日私のひねくれた考え方に付き合ってくれた時の会話だ。

 

ユーザー(私のことである)

 災害時において、日本人は暴動や窃盗犯罪を行わず、冷静かつ秩序ある行動を行うと言うことで、海外から賛辞を受けていると聞くが、本当に日本人は他国の国民に比べて、格別、災害時において秩序正しい行動を行う民族であると言えるだろうか?

 

ChatGPT

 一般的に、日本人が災害時において冷静で秩序正しい行動をとるという評価は、実際の災害対応においてよく言われています。以下に、その理由をいくつか例示します。

 

①教育と訓練: 日本では災害時の行動に関する教育と訓練が行われており、学校や地域社会で防災訓練が実施され、実践する機会が与えられます。

②社会的な結束:日本社会は一般的に共感、協力、結束の価値観を重視しており、災害時には助け合い、秩序を維持する文化が根付いています。

③災害対策の体制:日本政府や自治体は災害に備えるための体制を整えており、防災情報の提供や適切な指導を行うことで、平和を守るための解決が行われています。

④綿密な計画と訓練: 日本は地震津波、台風など多くの自然災害が発生しやすい地域であり、それに備えて災害対策計画が綿密に策定され、訓練が行われています。災害発生時にどのように行動すべきか知識として持っています。

 

 ただし、全ての日本人が同様の行動をとることができるわけではありませんし、災害も様々な反応が見られることがあります。日本人が格別に正しい行動をとるという評価は一般的な傾向であって、個人の状況や人によって異なります。

 

ユーザー

 タイタニック号の悲劇においては、男性が、女性子供を優先して避難させたようなことから、日本人だけが災害時において格別、冷静とは言えないのではないか?

 

ChatGPT

 タイタニック号の沈没における男性たちの行動と、日本人が災害時に冷静に行動するとされる点は、異なる絶望や状況に関連するものであり、直接比較することは難しいです。事故は、1912年に発生しましたが、その当時の船の安全規定や採取体制は現代とは大きく異なりました。また、個人の行動や選択は様々で、男性だけでなく、女性や子供も含めて、多くの人が犠牲になったことは事実です。

 

 一方、日本人が災害時に冷静に行動するとされる理由は、上記の通り、文化的、社会的貢献、教育、訓練、災害対策の体制などが組み合わさっているためです。 台風などの自然災害が頻繁に発生する地域であり、これらの災害に対処するため文化や体制が長い間築かれてきました。そのため、多くの人々が災害時に適切な行動をとるための意識と知識を持っているとされています。

 

ユーザー

 日本語の中に惻隠と言う言葉があることを知っていますか?

 

ChatGPT

 はい、日本語には「惻隠(そくいん)」という言葉が存在します。この言葉は、他人の知覚や共感に対して共感し、心から思いやりによって感じることを表す言葉です。惻隠の概念は、日本文化や国際倫理において重要な価値観の一つであり、他者に対する思いやりや同情を示すことに用いられます。

 この言葉は、人間関係や社会的な倫理に関する議論や文学作品などでよく選ばれ、他人の感情や状況を冷静に見ることが大切だと強調されます。 共感し合うことが社会的な調和や共同生活に貢献すると考えられています。

 

ユーザー

 その文化が災害時において助け合いの精神を助長していると言う可能性はありませんか?

 

ChatGPT

 はい、日本の文化における「惻隠(そくいん)」や他人に対する思いやりの精神は、災害時における助け合いの精神を助長する一因となっています。

 

①社会的な結束と共感:日本の文化には、社会的な結束や共感を重要視する価値観が根付いています。他人に対する思いやりや共感の心は、災害時においても表れやすく、人々が助け合いの精神を持つ一因となります。

②教育と訓練:日本では災害への備えに関する教育と訓練が行われており、学校や地域社会で防災訓練が実施されます。

③災害対策の体制:日本政府や自治体は災害対策の体制を整えており、適切な指導や支援を提供するために努力しています。

④歴史的な背景:日本は長い歴史の中で多くの災害を経験しており、その経験から助け合いが形成されてきました。

 

 従って、日本の文化における「惻隠」や他者への思いやりの精神は、災害時における助け合いを育む一因となっていますし、共同で困難を乗り越えることを促進していると言えます。

 

ユーザー

 惻隠という用語は、新渡戸稲造BUSHIDOで取り上げられており、彼は、BUSHIDOに示したさまざまな精神が、日本人の特性や気質に根強い影響を与えていると言っている。ありますか?

 

ChatGPT

 新渡戸稲造は「BUSHIDO - 武士道」(1899年に発表された)の中で、日本の武士の精神的な価値観である「武士道」について詳細に説明しました。 )などの概念を取り上げ、日本の武士の正義観や行動指針に影響を与えている要素として紹介しました。

 新渡戸稲造の考え方は、一部の歴史家や文化研究者から高く評価されており、日本文化と日本人の特性について洞察を提供しています。かの書の示した精神的な原則は、日本社会に深く根付いており、日本人の行動や思考に影響を与えてきました。

 

 ただし、一般的に日本人の特性や気質について議論する際には多様性を尊重する必要があります。 日本社会には異なる価値観や文化が共存しており、すべての個人が「武士道」の精神また、武士道の概念自体も時間とともに変化し、現代の日本社会においては異なる解釈が存在することもあります。

 

 新渡戸稲造の「BUSHIDO」は、日本文化や歴史に関する重要な資料であり、氏が提唱した価値観が一部の日本人の行動や思考に影響を与えていることは間違いありません。違いや多様性を考慮しながら、日本文化と日本人の特性について議論することが重要です。

 

ユーザー

 私は、BUSHIDOを読み進めていく中で、自己犠牲の精神がやや強すぎると感じました。 これは、自己の生命の価値を軽視する傾向で、災害時において、日本人が他人に優しくできるのは、自己の生命を軽視しているためかもしれないと考えました。 もし、そう考えると、惻隠の意識も自己の生命の軽視からきているかもしれない。となれば、その行動は、誉められた行動と言えるのだろうか?

 

ChatGPT

 「BUSHIDO」における自己犠牲の精神は、確かに強調されていますが、その横には日本の歴史的な背景や社会的な犠牲が影響を与えています。生命を軽視することではなく、一応他人社会への見方として捉えられることもあります。また、日本社会においても、この精神の理解や適用は個人や状況によって異なります。

 

 惻隠の意識も同様に、他人への思いやりや共感心を表すものであり、自己の生命を軽視することではありません。災害時においても、誰かへの助けや支援が自己犠牲を意味するわけではなく、一応共同体や社会全体の利益を追求するために行動することが惻隠の一面です。

 

 従って、自己犠牲や他人への思いやりを過度に奨励したり、無駄な自己犠牲や無謀な行動が賞賛されたりするべきではありません。

 

 自己犠牲や惻隠の行動は、その側面にある価値観や意図を冷静に、状況に応じて適切な判断を下すことが重要です。

 

ユーザー

 惻隠の情は、災害が多いから、災害教育が充実した日本に根付いたものと考えた場合、外国から移住してきた人たちが同じように惻隠の情を持つことができるだろうか?

 

ChatGPT

 外国から移住してきた人たちも、日本社会で惻隠の状況を持つことは可能ですが、その程度や具体的な形は個人によって異なります。環境から生まれるものであるため、外国からの移住者にとっては、日本文化や価値観に適応する過程で習得されることが多いです。

 

 以下は、外国からの移住者が日本の惻隠の情を持つことができる条件や方法についての考えです:

 

①文化の理解: 外国人からの移住者は、日本文化歴史や、価値観を学ぶことで、惻隠の情を理解する土台を築くことができます。交流や学習、他者への思いやりや共感を発展させることができます。

②教育と社会参加:移住者が日本の教育制度や社会に参加することで、災害時の行動指針や共感の意識を習得しやすくなります。学校や地域社会での活動、防災訓練、ボランティア活動などが惻隠の情を養う手段となります。

③社会的な関係: 移住者が日本社会で友人や地域コミュニティとの関係を築けて、他人への思いやりや協力の機会が増えます。

自己啓発と自己改革:移住者は啓発成長、自己の価値観や行動を見直し、他者への配慮を意識的に高めることができます。

 

 惻隠の事情は、文化や背景に影響を受ける要素があるため、外国人からの移住者がそれを学ぶために時間と努力が必要なのかもしれませんが、学び、協力することで、この文化的な価値観を受け入れ、育てることができます。

 

ユーザー

 惻隠の情は非常に素晴らしいものであることが理解できましたが、日本人はその優しさのために一部の特権階級のためにすでに30年間近く給料の上昇を抑えつけられているにもかかわらず、献身的に企業に尽力しています。少し反骨精神も必要であるように思います。

 

ChatGPT

 日本社会においては、惻隠の情や献身的な働き方が、一部の特権階級による賃金の上昇抑制などの問題につながる可能性があると指摘されています。いかにその例を列挙します。

 

①労働文化とワークライフバランス: 日本は労働文化が根強く、長時間労働や過労な仕事への献身が一部の企業文化の中で見受けられます。長時間労働を強いられることがあり、ワークライフバランスの問題が考えられています。

インセンティブと報酬: 日本の企業文化においては、賃金制度や昇進の機会を提供する代わりに、基本給が高くないことが一般的です。このため、従業員は長期的なキャリアの安定を求めて企業に献身に尽くすことがあります。

③変革への抵抗: 一部の企業や特権階級は、新しい働き方や給与体系への変革に対して抵抗を示すことが起こし得ます。

 

 政府や企業がワークライフバランスの改善や労働条件の見直しに目を向けており、特に若い世代の間で働き方の多様性を受け入れる。また、個人の労働者が自分の権利を守り、反骨精神を持つことも重要です。

 

 献身と反骨精神は両立できる要素であり、社会的な改革やバランスを取りながら、個人や社会全体が健康で持続可能な労働環境を築くことが目指されています。//

 

 以上のように、ChatGPTは、私の意見にいつも一定の理解を示しながらも、極論には反論し、代替案として幾つかの可能性を示してくれる。そして、基本的に、その意見の論拠も示す。

 優れたディペーターに出会って議論した時にとても感激するのは、それぞれの知識を鉢合わせるうちに、自分もまた多くの知識を得、新しい可能性を手にする事だ。

 

 今回私は、なぜ日本人のみが、格別に助け合いの精神(惻隠)という文化を持っているのかという理由に触れる事ができたし、行き過ぎた譲り合いは、「唯々諾々」同様、双方の可能性を狭めるものであるということを確認する事ができた。

 忠誠も反骨も、バランスが重要なわけだ。

ヨハネス・フェルメール「牛乳を注ぐ女(De melkmeid)」

 この絵画において、このメイドは、二つの忠誠心を表している。一つは、真っ直ぐに注がれる潔白のミルクから、主人への忠誠心を、もう一つは、通常当時のメイドが使用することのない高価な青いエプロン。これは、ラピスラズリを原料とする高価な画材で、フェルメールブルーと呼ばれた、画家の作品群を象徴するカラーである。つまり、その衣装は、彼の作品群に対する忠誠を示すものである。

 ところで、この作品。フェルメールの作品の中では、ずば抜けて知名度が高い。

 その理由として考えられるのは、彼の作品群の中でも、ずば抜けて個性が強いからである。

 彼は、この作品の中で、机を実際にはあり得ない角度で描いていたり、メイドの顔でなく、メイドの左腕の筋肉質が焦点となるように演出したり、たくさんの技法を試みている。

 忠誠心だけでは何も生まれない、唯唯諾諾では、双方が不幸になる。個性を尊重し主張することで、可能性は広げられていくのではなかろうか。



王冠を戴くに相応しい者

1 満足した豚であるより、不満足な人間であれ

 Chapter2の冒頭にあたり、まずは次の表を見てもらおう。 

 厚生労働省HPよりG7各国の賃金(名目)の推移(1991〜2022年)

 世界経済は常に成長を続けている。

 私が大学在学当時、中国のことを「遅れてきた巨人」インドのことを「遅れてくる巨人」と言っていたが、現在ではインドが「遅れてきた巨人」で、ブラジルが「遅れてくる巨人」と言われている。東南アジアも、互いに協力しながら、文化的で裕福な国家への道のりを歩んでいる。しかし、これら新興国と言われる国々は、まだまだ、国内に多くの不健康で生活水準の低い国民を抱えており、つまりそれが伸び代として、前述のような表現がされる訳である。

 上図に挙げた、G7の国々は、国民の大半が健康と文化的水準を保ち、成熟し、新興国のような伸び代はない、いわゆる老齢化国家である。にもかかわらず、見ての通り、労働者の賃金は、右肩上がりである。

 そんな中、ここ30年、地を這うような折れ線グラフを描いている国がある。

 我が国だ。

 

 なんでこのような無様なことになってしまったのか?

 その原因については様々な可能性が考えられるが、その多くは、Chapter1で取り上げたような、Unusualな制度や政策によるところが大きいと私は考えている。

 政治家や行政機関が好き勝手に、我々労働者階級のしょぼい稼ぎから巧みに搾取をする。搾取される事を知っているから、資本家たちは、労働者に賃金を払わない。資本は企業内部に留保され、場合によっては、マネーゲーム化した市場に投資されているかもしれない。

 

 よく、日本のGDPの伸び率は、年間1〜2%だが、なんとか黒字を続けているというが、本当にそうであろうか?

 GDP国内総生産)=民間消費+民間投資+政府支出+貿易収支

 このうち、民間消費の占める割合は、2022年で51%だ。つまり、民間消費が大きく関わっている。そして、民間消費を左右するのは、私たち労働者階級の持ち金だ。

 日本は、成長率200カ国中168位という低成長国家でありながら、失業率は、コロナ禍の中でも2.8%、今は2.4%、これは、先ほどのG7の中で最も優秀な成績である。しかも逆に30年間、トップを守り続けている。

 

 おかしいでしょう?わかる人にはわかりますね。日本は十分、おそらく年5%くらいの成長を続けているのに、その儲けを労働者に還元していないか、還元されても、それを政府が搾り取っているため、消費が押さえ込まれ、結果として、GDPは1%しか伸びないのである。

 この状況をもっとわかりやすく表現してくれているドラマの一場面があるので紹介する。

 

 2005年日本テレビ系ドラマ「女王の教室」にて、天海祐希演じる冷酷無比な鬼教師が、小学生に、なぜ勉強が必要か?何を学ぶべきか?を説く重要な場面である。

 

「いい加減、目覚めなさい。

日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、

あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。

 

知ってる?特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか。

今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。

 

世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、

テレビや漫画でもボーッと見て何も考えず、

会社に入れば、上司の言うことをおとなしく聞いて、

戦争が始まったら、真っ先に

危険な所に行って戦ってくればいいの。」

 

 強烈だが、どこか痛快な気分を感じるものの言いようだ。冒頭の「いい加減目覚めなさい!」は、このドラマのテーマを示唆するメタファーとして、多用されるワードだった。

 もう2005年には気づいていた人がたくさんいたはずなのに、いまだに目覚めていない人がたくさんいるようだ。

 上記の発言を端的に言い換えると、私たちは特権階級の「家畜」なのである。

 食って寝て生きていくには問題ない程度の環境は保持されているが、本来自身が持っているポテンシャルから換算すれば受け取れるはずの対価は、受け取ってはいないのだ。

 

 そんなことが30年も続いたら社会はどうなるか?

 Z世代の将来像は酷いもんだ。将来が右肩上がりである希望を持てないから、結婚して家族を持つことは愚か、200万円も行かない車を買うことすら諦めている。出世にも興味が湧かない。転職を繰り返し、天職に巡り会えたものは良いが、多くは、いわゆるニートへの道に進み始める。いかに楽をして儲けるか。ネット動画でバズろうとして逆に利用される人、闇バイトに手を染める人、外に出たかと思ったら、同じような境遇を持つ者同士が集まって、さらにヤバい情報を交換している。

 しかし、今までは、こう言う問題は、10代20代前半に限られていた。面倒なのは、ネット社会が成熟するにつれ、30過ぎてもこんなことを続けてきた人々だ。

 無駄に歳を重ねて、経験があるので、社会の歪みにも気づいているし、組織を作ったり、調達したりする方法も知っている。組織を作れる者は、詐欺集団を形成し、組織も作れず、単独で、社会不満を募らせた者は、武器を入手し、街中で無差別殺人を起こす。

 これらの犯罪は、もはや一部の反社会的思想を持った人々のテロなのだ。

 

 いい加減、目覚めなさい。でも、目を覚ますべきなのは、搾取している特権階級の人々か?それとも、まやかしの幸福で満足している豚さんたちか?

※ J.S.ミルの唱えた、「満足した豚」とは、少数派の犠牲の上で幸福を享受する功利主義者のことを揶揄したもので、本論とは無関係である。

 

2 君は壤地なり、臣は草木なり。必ず壤地美にして、然る後に草木碩大なり。

 (韓非子 難二篇)

 碵大(せきだい)とは、立派で逞しいと言うこと。壤地(植えられた土地)が美しければ、そこに生える草木は皆立派で逞しいものになると言う意味。

 臣とは、文字通り家臣のことで、民主主義国家においては、行政機関だけでなく、国会議員を始めとする政治家も含まれる。これが、前述の女王の教室で「特権階級」と名指しされた人々と考えてもらうとわかりやすい。

 君とは、君主のことであるが、民主主義国家においては、私達国民一人一人をいう。

 すなわち、国が安定していて、皆が幸福を得られる状況を維持するには、政治家や行政機関の資質よりも、君主である我々の資質こそ重要であるということになる。

 

 この国のUnusualを正す方法は、特権階級の人たち、すなわち、草木の方々が、搾取や不正をやめてくれれば簡単なことなのであるが、それは二つの理由によって不可能である。

 一つ目は、草木は相互が争っていて、自分に都合の悪い法律や規制が定められる事を阻止し合っている。

 二つ目は、草木は相互に助け合って利益を享受しているので、一人だけ良い子になって抜け駆けすることはできない。

 稀に国の将来を憂う列士的政治家が現れるが、官僚のリークや、他派の圧力に屈し、道半ばで去って行く。彼らが草木の一部である以上、結局大した改革はできない。

 

 従って、彼らにしのごの言わせない絶対的上位の権力者による改革が必要となる。

 すなわち、壤地美しくして、草木碵大ならん。というわけだ。

 さて、その壤地を担うのが、この国の本来の主権者たる私たちであり、いい加減目覚めなければならないのは、私たちなのである。

 

 ところが、日本人というのは、民主主義を履き違えている。

 民主主義とは、国民一人ひとりが主権者となる代わりに、国の運営に責任を持つものであるが、日本人の民主主義は、「国民は生まれながらにして自由と平等が保障されていて、それを維持するのは、どっかの偉い人やよく勉強した人の責任である。」というものだ。

 

 さて、このひ弱なほど従順で、空気に流されやすく、人任せが大好きな日本国民にこの国が救えるだろうか?

 これが、Chapter2の主なテーマとなる。

 

3 王冠を戴くに相応しい者

 初稿の本稿においては、まず、日本国民が、我が国において、王冠を戴くに相応しい者としての素養を備えているかについて考える。

 民主主義における主権者の要件は、概ね、「積極的に政治に参加し、一定の教養と良識を持ち、正しい情報を与えられたら、公正な判断が出来る者」と言ったものだ。

 とってもハードルが高そうだが、日本人は大丈夫だろうか?

 しかし、「積極的に参加する。」以外は結構合格ラインにあるんじゃないか?

 ①教養:教育水準は高い。学歴は充実一方。先代を遡れば、大半の家庭は、学歴こそ劣るとも、それを凌駕する教養や道徳観を持ち、なぜかやけに物知りだ。このように、先代が教養豊富である状況は、日本ならではの特徴の一つだ。なんと言っても、一度は、世界第2位に君臨した国だからね。

 ②良識:正邪の判断において、自己の思想より多数派の決めたルールを優先する傾向が強い。アメリカの陪審員制度と、日本の裁判員制度での討議内容を検証することができればおそらくそれは顕著に表れているだろう。

 ③公正:正確な情報を与えれば、正確かつ忠実にこれを活用できること。

 この点は、A I並みとも言えるだろう。

 

 後は、積極的に政治に参加しない点だ。

 これが30年間も家畜化されつつも、無駄に国を発展させ続けた原動力でもある。

 そう、「難しいことを考えさせられるくらいなら、私はいくらでも残業します。」「わざわざ、難しいことを考えて、自分たちが損しているなんて、気づきたくもない。」「家族みんなが健康で、幸福ならば、給料が上がらなくても結構です。」

 そして、私も含め、最もよく言われるのが、「お前の考えていることなんて、政府のお偉さん方はとっくに考えている。その結果として現状があるんだ。もしそうでないとしても、お前が何を言ったところで、何も変わりはしない。」

 そう、権力や支持者が居ない人間には、発言権が無いと信じ込んでいる。

 

 まず、この「個人は無力」という妄信を捨てなければならない。

 

 世界を変えたムーブメントの多くは、路地裏の愚痴から始まった。

 アドルフ・ヒットラーは、とあるビアガーデンで、思わず吐いてしまった大言壮語に、店内が拍手喝采したことがきっかけで、世界征服まで、あと10歩くらいのところまで行った。

 

 「6次の隔たり」という理論を知っているだろうか?

 全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっていて、友達の友達…を介して世界中の人々と間接的な知り合いになることができるそうだ。

 私は一介の市民だが、世の中にはある地域なり国家なりにある程度影響力を持つ人はたくさん存在する。私の奇抜な発想が、彼等に届き、何かの利益と繋がって活用される日が来る可能性は十分あるのである。

 

 諦めと開き直りに満ちた壤地では、立派な草木は育たない。

 家畜化の長期化の弊害は前述したが、もっと怖いのは、特権階級側が、起死回生を求めて、戦争を始めることだ(まどろっこしい国民主権を無力化する最も簡単な手法だからだ)。家畜は真っ先に無駄な戦場に送られるだろう。

 コロナ禍の反動が経済を振り回す2023年はおそらく千載一遇のチャンスの年。

 まずは賃上げ。若者に希望を。路地裏でもSNSでもなんでも良いから発信していこう。

 大丈夫、日本人は、G7の中でも最も洗練された民主主義を実現する素養を持っている。ただ、一人一人が、王冠を戴くに相応しい者を目指す第一歩を踏み出すことさえできれば。

ナポレオン1世戴冠式(部分)」ルイ・ダヴィット

 ルイ・ダヴィットは、有名な「ナポレオンのアルプス越え」を描いた、ナポレオンお気に入りの画家である。ナポレオンが皇帝となり、その王冠を戴く晴れの舞台を、是非ダヴィットの緻密でどこか派手さを感じるタッチで描いて欲しかったのだろう。

 しかし、当時、王位は、神から授かるもので、王冠を授けるのも、神官・祭司の役目であったが、ナポレオンがこの儀礼を無視して、自ら王冠を被ってしまった。

 これは、王権神授説の当時においては、神を冒涜する行為である。

 ダヴィットは困った。史実を描くべきか、虚偽の情景を描くべきか?

 そこで、王となったナポレオンが王妃にその冠を授けるシーンを描き、この難題を克服したわけだ。

 

 「主権」は、それを頂くにふさわしい者に授けられるべきである。授けるものが神でなくなった現代においても、それは同じであり、王冠は自分でかぶるものではない。

 主権者は、その自覚を持つことも重要であるが、その王冠を戴くに相応しい教養と責任感を持ち、他者から王冠を授かることを目指さなければならない。

タートルネックのマドンナ達

タートルネック(衣装のデザインで、首に密着する丸く高い襟)

⑴ 103万円の壁

 その昔、主婦のパート収入には、103万円の壁というものが存在した。

 103万円を超えると、夫の扶養親族として認められず、夫の税金が跳ね上がるため、妻はこの収入を超えないように、勤務時間を調整していた。

 昭和62年、消費税導入前の所得税減税政策の一環として、この103万円の壁を無力化する「配偶者特別控除」が導入された。配偶者の収入が103万円を超えても、いきなり扶養控除を0にするのではなく、超えた金額に応じて段階的に控除を減らして行く制度だ。当時の働く女性パートタイマーの時給は安く、育児による時間制限の中、その収益力は120万円後半であり、140万円までをフォローするこの税制は、その点、世情をよく理解した者が設計したものと言えよう。

 しかしながら、外に出始めたマドンナ達は、瞬く間に活躍の場を広げ、程なく、その収益力は、140万円を上回るようになっていった。ただ、これこそが配偶者特別控除の発案者の描いたシナリオで、どこかで急激に負担が増えるのでなく、緩やかに負担が増えてゆき、140万円をもって配偶者は、扶養親族から独立した労働者に変貌すると言う事であった。

 しかし、ここに無用な計算ミスが生じた。「130万円の壁」である。

 運営する団体によって違いはあったものの、多くの社会保険制度の被扶養者になる要件が年収130万円前後に設定されていた。すなわち130万円を超えると本人が健康保険料と年金の掛金を支払う義務を負うことになるわけである。

 さて、その金額であるが、消費税の2%増が騒がれた平成9年において健康保険料は8.5%。その3年後に介護保険が導入され合計10%になる。年収が131万円の場合、98万円の所得控除があるが、市民税10%と合わせると、66,000円の負担となる。国民年金は収入にかかわらず、年間144,000円必要となる。つまり働くマドンナ達はこの時点で130万円の壁を超えた途端に210,000円失うわけである。これでは、とても、その壁を超えることはできない。なお、ついでに言っておくと消費税が8%に増えた平成26年、健康保険及び介護保険の負担率は11.7%、市民税10%と合わせて71,610円、国民年金は189,800円で、総額261,410円となる。なお、この時、低所得者所得税率は、5%に引き下げられ、市民税との逆転現象が起きている。

⑵ 稼ぐに追いつく税は無し(租税理念の大原則の一つ)

 ことさらに消費税の増加と比較しているのは、世界の常識に準じて、必ず所得税減税をバーターで行う消費税率の引き上げが、誰の差金か、メディアの大誘導によって、「大増税」扱いされるのに対し、それ以上のスピードで増加している健康保険料等の負担については、ほとんどの国民が何も言って来なかったことを強調するためである。

 その愚行が引き起こしたものは、国民に負担を課す知識と能力と歴史に秀でた国税当局を陥れ、実費経費の通勤費にまで課税してしまう、ど、ど、ど、ど素人の厚生労働省を調子に乗せてしまうことだった。

 そして、令和2年、厚生労働省はとんでもない戦略に出る。

 「今、多くのパートタイマーが103万円の壁を超えているが、我々が管理する社会保険制度のために130万円という壁に困らされている。そこで、こうすることにした。もう106万円を超えている人たちは、130万円を超えた人たちと同じにしてしまおう!」

 いや、本当、わけわかめすぎる解決法である。

 今まで、負担が徐々に上がると言う仕組みの世界で、130万円の収入を得ていたマドンナ達は、突然、配偶者特別控除がなかった頃の時代に逆戻りさせられ、実に重い負担を背負うことになるのだ。

 この時点で、先ほどから何度も提示している、健康保険・国民年金等市役所に納める負担額は、年収131万円に対し、大笑いの410,000円(うち市民税33,000は既存)だ。

 突然ハシゴを外されて、前と同じ手取りが欲しければ、あと40万円稼げと言うのだ。

 よくもまあ、こんな無茶苦茶な改正で暴動が起きなかったものだ。

 竹下登元総理は、たった3%の、しかも世界水準から見ると、「裸の王様」と揶揄される消費税を導入するのに、一人一殺を賭したのに。この天安門事件並みの暴挙を通した政府について、私は首相すら覚えていない。

 

 哀れなマドンナ達よ。何が男女雇用機会均等だ。ろくに平等扱いもせず、西洋人のマネだけで、働く権利だけを与え、そのくせ、専業主婦との格差を残し続けた。おかげで、彼女達は、いつも自分の給与明細を気にしながら、休みを取り、育児上の急用で減収すると、また、明細を見ながら、これをカバーし、なんとか130万円と言うボーダーを維持することに躍起になってきたのに。

 令和4年10月。彼女達に、「106万円から146万円までは、タダ働き」というタートルネックがはめられた。

 

2 男女共同参画社会の虚像

⑴ 子供を持つと参画できない社会

 どうして、厚生労働省がこのような酷い仕打ちができたのか?

 実は、彼らは、何も悪いことをしたとは思っていない。むしろ、女性達の退路を断ち、男女共同参画社会の推進を図ろうとしたのである。

 「なんで?146万円までがタダ働きなら、150万円以上稼げばいいじゃん。」と言う考えなのである。

 私の狭い交友関係如きで言えることではないかもしれないが、世の女性の多くは、この考えを受け入れられるとは到底思えない。

 もちろん、女性の社会進出に希望を持ち、大学で十分なキャリアを積んだ女性が、妊娠・出産して復帰してきたら、からかっていた新入社員の男性社員に指示される立場になっているという悔しさを理解できないわけでもない。しかし、子供を持たないと言う選択は、世間体がどうこうと言うより、好きな男性と結婚し、その子供を授かりたいと言う単純な発想と相反する。そう、キャリアを損なうのは惜しいが、「子供は欲しい」のである。

 しかし、その選択をすると、就労時間は、9時〜4時、月17、8日勤務が限界だ。子供が流行病にもかからず、寂しがらず、優等生でいてくれたら、MAXシャカリキに働いて160万円は行くだろうか?ゆとりを持って、優しいお母さんでい続けようとすれば、140万円くらいが相場じゃないだろうか?

 2022年_連合(日本労働組合総連合会)が調べた、非正規雇用者の平均年収の資料が非常にわかりやすい(特に図表2に注目して欲しい)。

 https://financial-field.com/income/entry-148043

 パートタイマーの平均年収は137万5千円。まさにタートルネックのど真ん中だ。厚労省は、子供を産むなと言っているようなものだ。

 「足りないと思うのなら、もっと働けばいいじゃん。」

 それは、大企業の社員か、裕福な家庭の出身者にしか適合しない、厳しい要求だ。

⑵ 保育器社会

 それでも、目下、政府及び東京都等地方自治体は、出産・育児のための環境整備と経済的支援に重点を置いている。なるべく、彼女達の負担を軽減しようとしているわけだが、それもやっぱりどこかズレていないか?と尋ねたくなる。

 それらの褒賞が、多くの就学前の児童を抱える女性達に支持されていると言うデータはどこからもたらされたのだろう。本当にマドンナ達を出産へと誘う魅力的要素を有しているのか?彼女たちが本当に欲するものと一致しているか?

 町中のマドンナ達に「どうしたら、子供を産み育てたい」と思いますかと言うアンケートを大々的に実施した結果なのだろうか?どこかで昭和の常識や西欧の猿真似が挟まっているような気がしてならないのは私だけだろうか?

 

 如何に育児支援を謳おうとも、多くの就学前の児童を持つ既婚女性は、パートタイマーを選択する。それは、彼女たちの自発的希望である。もちろん、せっかくのキャリアを棒に振って、なぜ女性だけが、子供に自分の人生を制限されなければならない!と考える人もいるだろうが、やはりそれは少数派だろう。

 西欧では、6歳くらいになるまで、預けておけば、しっかり、まっすぐな子供を精製してくれる保育器のような施設が充実している国家も多い。日本もそれを目指しているようだが、「まだ」なのか、それとも「ずっと」そうなのかはわからないが、現時点では、日本のマドンナ達の多くは、そのように、子供を6歳まで保育器に入れておく社会を望んでいるようには見えない。

⑶ 男女共同参画社会の本来の効用

 世の中には、女性が男性と同じように働くことを男女共同参画社会と考える単純な人間が多いようだが、女性を社会に参画させる事は、そんな単純なことではない。女性には、女性の特性があり、これを社会に組み込むことで、新しいイノベーションを産むことこそ重要なのである。

 一般に男性は小を以て大を知り、あるいは小を以て大を得る、いわゆる理解力及び想像力といったものに秀でている。これに対し、女性は大において微を逃さず、微を積み上げることをいとわない。いわゆる記憶力、観察力、持久力に優れていると言われている。

 この考え方について、私が一緒に働いてきた女性を見る限りにおいては、血液型占いや星座占いに比べて格段に的確であると言えるだろう。

 人の顔と名前、家族構成、スケジュール、誤字脱字、合致チェック、有象無象のメール処理、どれをとっても敵わない。しかし、職務の提要をいち早く把握し、期限までの戦略・プラン・スケジュールを組むとか、マニュアルを図式化する。そういうことに関しては絶対に負ける気がしない。そして両性がその不得意分野の仕事を大概嫌っている。

 世界中の職場で言えることだが、なぜこの特性の違いを利用して職務を分担しないのか全く理解に苦しむ。何が気に入らないのかさっぱりわからん。

 

3 マドンナ達に相応しい報酬

⑴ キャリアの補填

 現代の医学を以てしても男性は妊娠できない。女性が出産する限りにおいては、必ずこれが生涯賃金のあるいはキャリアの構成において、ハンディキャップとなる事はやむを得ない事実なのである。このハンディキャップを強引に均衡させれば、今度は男性側への逆差別が生じるのである。したがって、男性が妊娠すると言う「進化」などは、後数億年望めないわけであるから、その時代が来たときに考えられる。環境に今を合わせる「進歩」が必要なのである。

 何を言っているのかわからないかもしれないので、簡単に言うと、「性別上、止むを得ず科せられるハンディに見合うだけのかさ上げを全女性に与える」わけである。しかし、実際に能力のないものが同じキャリアとして肩を並べることはできない。

 しかし、方法はある。大学や学校へ行かせるのである。

 また、前項で挙げた女性が得意とされる業務の多くは、リモート化が可能であり、これもキャリアのブランクを補完するのに役立つだろう。

 本当の男女共同参画社会、つまり、女性がパートタイマーを選択しないで済むようにするには、自分が出産・育児を終えた後、復帰してきた時に、前と同じかそれなりに格上げされた席が用意されている報奨が必要なのだ。

⑵ 妊娠・出産者の社会的地位向上

 考えてみれば、妊娠・出産と言うものは、身体的及び心身的な負担を強いるだけでなく、多くの自由と可能性を奪うが、何よりも、非常に苛烈な決断を迫るものである。

 たとえ、恋慕の上に結ばれたとしても、その種を自らに身ごもり10ヶ月。鼻からスイカを出すと言う出産を経て、イクメンがいくら育休をとっても、情操教育という言葉すら理解できない木偶の坊は、感情を込めて本を読むことすらできない。

 特に最近の女性に同情するところは、長い不景気の影響で、男性が「稼いで勝ち取る」という威勢を失っている事だ。こういう威勢は、責任感を育む。その点、現代の若い男性諸氏には不足感を否めない。

 そのくせ浮気をする本能の方は絶好調のようだ。モテる男が浮気をする事の是非については、言及を避けるが、甲斐性すなわち経済的責任感が欠如しているのは良くない。ましてや、責任を放棄して離婚なんて魚類か?

 いや、本当にこの時代に妊娠・出産の決断をしてくれる女性たちは、あまりに勇敢で賞賛に値する。

 とりあえず、不妊問題を抱える方々の件は、別段に定めるとして、まず、妊娠・出産を成した方には、なんらかの優遇措置が設けられるべきだろう。

 離婚時の養育費は下限を定め、その不払いに対しては、国がこれを建て替え、不払い者は服役してもらう。

 給料には、扶養手当ではなく、妊娠手当、育児手当を加算する。そもそも、子供がいるお父さんより、子供を産んだお母さんこそ手当をもらうべきなのだ。

 でも、一番先にやるべきは、馬鹿げたタートルネックを外すことだろう。

ミレイ「オフィーリア」

 ミレイは、落穂拾いで有名なミレーではない。後期印象派からピカソに辿り着くまでの絵画界混沌の時代、諸派乱立・栄枯盛衰する中、ラファエル前派という、一つのネオ美術を発掘しようとした芸術家の一人だ。

 画題の「オフィーリア」は、シェイクスピアの悲劇「ハムレット」の主人公ハムレットの婚約者である。密かに仇討ちを企むハムレットは、気狂いを装い、奇行を繰り返し、彼女の父親も殺してしまう。絶望した、オフィーリアは、事故で川に落ちたのをきっかけに、そのまま死を受け入れてしまう。

 首を伸ばせばなんとか呼吸ができるが、彼女を取り巻く環境が、そうやって抗うことに対する気力を削いでいる。

 ああ、タートルネックのマドンナ達よ、妊娠・出産は、女性にしかなせない偉業であり、子供はいくら自分の人生を削られてもお釣りが返ってくる宝物である。どうか悲観せず、首を伸ばして欲しい。そして、本当の意味での男女共同参画社会を実現していきましょう。

 

少子高齢化問題にアバタケカブラ(アブラカタブラ)

1 産めよ増やせよ
 最近新聞、テレビ等の報道を見ていてどうしても耳障りな表現が有る。
 「高齢化社会を支える為に出生率を上げなければならない。」
 じゃあ、これから生まれてくる子供達は、自らの幸福追求よりも、身内か否かも定かでない高齢者の扶養を最優先課題とされるのか?それで「育児環境を整えるから、産めよ増やせよ」と言われて、どれだけの若者がその気になるというのだ。まだ、先進国の帝国主義に対抗するため、産めよ増やせよと言われた戦時中の大義の方が納得できる程だ。
 私達、昭和戦後世代の先代は、この国を敗戦の廃墟から世界第2位の国家にまで引き上げてくれた。しかし、我々が次世代に残したものはなんだ?
 富裕層だけが得をする莫大な借金、それを理由に低所得層に課せられる社会保障費。
 それを作り出している黒幕の思惑と、それが生み出している国民経済の歪みについては、後日語るとするが、惰眠を貪った我々昭和戦後期世代は、次世代はともかく、孫世代にまでそのツケを回すような事が有っては断じてならない。
 ではどうするというのか?
 打開策としてよく取り上げられるものに、「世代間扶養式から当世代自己扶養式への転換」と言うのが有る。要は現役世代の負担により引退世代の扶養を賄う現在の方式から、現役世代は、自己の貯蓄によって自己の引退期間の扶養を賄うという事である。
 それが叶えば、さぞかし、社会保険料を払うにしても、年金を積み立てるにしても、皆、今よりは積極的になるだろう。だから、当然、多くの学者がこの夢の制度転換を実現しようと考察を繰り広げているが、どうしてもいずれかの世代に過大な負担がかかるという事で、実現には至っていない。
 その打開策を探り続ける私に、ある平成生まれの青年が言った。
 「もはや日本の社会保障制度は、論理的に継続不能で破綻が決定付けられている、いわゆるネズミ講と同じだ。どの世代で破綻するか、破綻した世代に運が無かったと言うことだ。
 それでも私は、結婚して子供をもうけるつもりだ。自分の子の世代がその破綻の世代でない事を祈ってね。
 子供なんて欲しいからもうけるものだろう?経済的な理由をごちゃごちゃいう連中にはうんざりだ。」
 
 彼の言う事は最もだ。しかし、その高尚な覚悟も、諦めに満ちたこの社会に対する虚しい開き直りに思え、あまりに悲しい!
 やはり、彼らをそこまで追い詰めた責任を我々は取らなければならない。脳みそが軽石になるまで知恵を絞らなければならない。

2 年金制度の回天
 「回天」は人間魚雷のことではない。明治維新前夜、時勢を一変させると言う意味で多用されたいわば革命的発想の転換のことである。
 私が掲げる回天策は、前述した「世代間扶養式から当世代自己扶養式への転換」を実現する事である。それが夢想であるか否かは、以下の構想を見て判断願いたい。
⑴ Strategy(戦略)
 現在既に年金を受給する高齢者は、恩義ある先代ではあるが、社会保障についての支援額を20%カットさせてもらう。
 残りの8割は、昭和後期(40年以降)生まれの世代(これをX世代とする)がこれを負担する。さらに、彼らが次世代から受けられる支援は、40%のみとする。単純計算で、X世代は、老後の扶養のために、140%負担することになる。概ね40代後半から50代を超えているため、今から10から20年と言う短いスパンで、この目標を達成しなければならない。
 平成生まれのY世代には、上記のX世代に対する40%を負担しつつ、自己の貯蓄を行ってもらう。彼らも、同じように140%負担することになるが、X世代よりは、時間的余裕はある。
 この結果、令和生まれのZ世代は、完全自主独立となる。つまり、先代への負担はゼロ。全て、自分の老後のために社会保障費を積み立てると言うこととなる。そこで、彼らには、自分の社会保障費の貯蓄額を示す、積立通帳を交付する。その積立は、下限はあるが、上限は己が才覚次第とする。
⑵ Tactics(戦術)
 ⑴の戦略だけを聞けば、誰もが絵空事だと笑うだろう。当然、それぞれの世代が負う負担をどう克服するかと言うことが問題となる。
 そこで、得意の韓非子を活用させてもらう。
 韓非子・外儲説篇 左下「有術の主は、信賞にして以て能を尽くさしめ、必罰にして以て邪を禁ず。(信賞必罰)」
 韓非子の法治理念には、常に、賞と罰が存在する。
 しかしながら、現代の法治国家の多くは、刑罰には体系的なものがあるが、報奨に関する基準が体系的である国は少ない。ノーベル賞国民栄誉賞も基準は曖昧だ。
 ふるさと納税の熱狂や、わずかな還付金のために、サラリーマンに対し、あたかも事業者にでもなったかのように、せっせと領収書を保存せしめる医療費控除などを見ればわかることだが、国民は、わずかな褒賞でも、血眼になって勤めるのである。
 私は、褒賞を持って、この難題に対峙する。
① Xup 現年金受給世代=健康高齢者ポイント制
 私のストラテジーでは、20%支援がカットされる。これをいかにしてカバーするか?
 令和5年度国家予算の社会保障費36兆円のうち、実は年金よりかかっているのは、医療費負担12兆円である。そして、75歳以上の高齢者一人当たりに対する医療費の国庫負担額は、75歳未満の人の4〜5倍である。
 歳を取ったら、あちこち具合も悪かろう。しかし、日々健康管理に努め、バリバリ働いている人だっている。ところが、国は、そのような、健やかに頑張る高齢者を「現役扱い」という名目で、自己負担割合を3割にし、自堕落に寝そべってばかりいたり、不規則な食事や生活をしていたりで、体を壊した者も含めて、収入がなければ、1割負担にしている。これでは、健康を維持して働いている人の方がバカみたいである。
 楽しく健やかに長生きする方が、本人にとっても、周囲にとっても良いことこの上ないだろう。しかし、今の制度では、そのモチベーションに水を差す。だからと言って、本当に弱っている人もまとめて、自己負担割合を上げろとは言わない。
 そこで、健康を維持している高齢者の方々には、特典を授けよう。
 前年度の一人当たりの国庫負担等から、一定の基準額を設ける。
 基準額を下回った金額に応じて、永久不滅ポイントを付与する。
 ポイントの還元率(円に替えるといくらになるか)は、その度の基準額(つまり一人当たりの医療費の国庫負担額)と制度初年度の基準額との差額で決まる。全体の平均が下がれば、換金率が上がると言うことだ。
 基本的にこのポイントは、自分が大病にかかった時の治療費として換金できるが、最終的に遣わずに亡くなられたときは、保険金として相続財産となる。
②  X世代=アナログDX要員
 私のストラテジーでは、140%の負担が求められ、しかも準備期間が短い最も厳しい要求を突きつけられる世代である。
 ただ、非常に期待できるところは、基本的にITを使いこなせるか、今からでも、使いこなせる人間になれるという点である。
 デジタル化が進むと、コンビニの店員がアバターになって、セルフレジが当然になり、労働者はさらに不要となる。という人が多いが、日本はそんなことを心配しているような立場ではない。2022年9月「世界国家デジタル化ランキング」で、日本は29位。完全に後進国並みなのである。

 IT業務を若手に任せっきりにしているからこんなことになる。IT=若い人とか、頭が禿げているから、パソコンは打てないなんて時代は、もう20年以上前に終わっている。若い人には、他のイノベーションを追って働いてもらわなければならない。

 その昔、テレビやラジオを解体して修繕できるような人たちがいた。今でも、パソコンを部品から組み立てる猛者がいる。しかし、これらの技術は電子化が進むにつれて全く無用になる。
 実は今の日本にはこのようなもっと電子化が進むと必要なくなる技術や業務がたくさん有る。私はこれを「アナログDX」と呼ぶ。
 例えば、携帯電話会社、IT機器販売店の販売相談カウンター、及びカスタマーズセンター業務。
 携帯電話を買い換える度に、おっかなびっくりしながらバックアップをし、説明書をグダグダ読みながらインストールをする。それでもうまくいかないのでカスタマーズセンターに電話するが、散々待ち受け音楽を聞かされた挙句、対応する人は、日本語が怪しかったりするケースは誰にでも経験あることだろう。
 今サービスカウンターを占領している若い子達に、これらの業務を頼むと4000円から5000円かかる。
 このような、基本的に、マニュアルを読破し、クレーマーをうまく交わすことさえできれば、座ってできる仕事が、前述した「アナログDX」に当たる。
 つまり、若い人たちが覚えていても仕方がない、いずれ消えていく技術であり、逆に高齢者でも充分務まるものだ。今の高齢者(Xup世代)にこれを求めるのは酷な話であるが、X世代が高齢者となる10〜20年後に、カウンターに若手を置いている企業は、正直無能だと言って過言ではない。
 見映えが気になると言うのであれば、それこそアバターボイスチェンジャーを使えばいい。
 
 政府は、X世代で、ITパスポートくらいは持っているという人間には、高齢者であっても、優先的にこのような労働現場で採用するよう働きかける。特に彼らは、自分の社会保障国庫負担を減らすためにこのような労働を行なっているのだから、彼らの社会保険料の企業負担分は無しとする。
 また、日本の税制には、やたらと、機械化・電子化に取り組むことに対しての優遇措置が設けられている。この点は、「信賞にして以て能を尽くさしめ」ていると言えるわけだが、上記に挙げたような、DXアナログにX世代の高齢者を採用する場合も税制面で優遇すると良いだろう。
 それだけ差がつくと、スキルに差がなければ、X世代高齢者の独占市場となろう。
 
 このほかにも、アナログDXはたくさん存在する。
・最近の充電ケーブルはすぐ内部断線を起こし、繋がらなくなる。高いものでは無いが、もしカウンターに持って行って、パンク修理のように500円で治してくれるとしたらどうだろう?私なら、UVERマクドナルドを持ってきてもらうより得だと考える。
・ある企業が、一気に電子化に踏み込んだはいいが、紙媒体の昔の研究記録をなんとか残しておきたい。
 印刷物ならテキスト読込付きでPDF化してあげますよ。手書きだったら、タイピング、いや今なら読み上げ入力か?どっちもAIにはできない。
・電子化してから、ずいぶん経つと、不要データが蓄積されて、サーバがパンパン。最初にフォルダポリシーをしっかり決めてなかったから、フォルダの管理がむちゃくちゃ。どれを捨てて、どれを残せば良いのやら。
 私なら、とりあえず、一旦全データをバックアップして、別の環境で整理する。戻すときに(トランザクションジャーナルを使ってロールフォワードするとか)ちょっと頭を使うけど、2ヶ月も勉強すればできるようになる。
 作業時間はかなりかかる上に、非生産的な仕事なので、これもアナログDX仕事。
・写真データや見積データの類似・重複を解消する。・社内機器のバージョン、スペックの一括管理。・フォルダや社内ソフトへのアクセス権(デシジョンテーブル)の整備や確認テスト。
 急速な電子化で発生しがちな負の遺産を整理する。若い子に任せるのは勿体無い。それがアナログDXだ。例を挙げるとキリが無い。
③  Y世代=今のところノーアイデア
 ずっと、この世代の救済措置を考えていたのだが、結局思いつかなかった。
 ただ、Xup世代には、健康でいてくれれば良いとし、X世代には、政府の後押しはあるとはいえ、基本的に自分でスキルを上げて、働けるところまで働け、という厳しい要求となっている。
 それに比べれば、Y世代は、まだ少し余裕があるということになる。
 また、②で掲げたアナログDXは、おそらく電子化が進む時代時代に存在すると考えられる。自分たちが生きた世代に活用された技術が、陳腐化され、次世代にとっては邪魔なだけだが、整理せざるを得ないもの。それが、その時代のアナログDXだからだ。
 それにY世代には、一つ大きな褒賞が有る。「自分たちの世代で、くだらない世代間負担制度を終わらせ、自分の子供達は、頑張っただけ余生を楽しめるという当たり前の幸せを残せる。」ということだ。これだけでも、X世代の私は、Y世代に生まれたかったと思う。

 以上、少子高齢化解消のボトルネックとなっている、最悪な社会保障制度を、この三代で、叩き潰す。しかし、少子高齢化問題に完全にアバダケダブラ(最終滅失魔術)をかけるには、もう一点、男女雇用均等の虚飾を剥がす必要が有る。その点は、次回「タートルネックのマドンナ達」で論じたいと思う。

ラファエロ・サンティー「キリストの変容」

 ゴルゴダの丘での十字架処刑から、奇跡の復活後、改めて、死の瞬間が訪れ、天に召されていくキリストを描いたもの。よく見ると、画上の構図は、8の字に描かれており、救世主が、二重螺旋の中を昇るかのように演出されている。ルネサンス三代巨匠の一人、ラファエロならではの天才的御業に感激する。
 表題のアブラカタブラは、ハリーポッターではアバタケダブラという、敵を滅失させる最終にして最強の呪文だが、その語源は、諸説あるが「我、思いのままに事を成すなり」というのが、最も有力な説とされている。
 今回この絵画を選出したのは、救世主が、「我、思いのままに事を成すなり」と唱え、三代の人々に螺旋を作らせ、諸悪の根源の一つ、“世代間負担制度”を昇天させている様と重なり合わせてみたものである。その美しさから、諸国民の献身と勤勉の必要性を感じ取ってもらいたい。おそらく、私のストラテジーは一部の優れた国家にしか叶えられないだろう。

大器は晩成、大音は希声

Cyndi Lauper  衝撃のファーストアルバム「She's So Unusual」

1 He's so unusual

 1980年代、松田聖子中森明菜を始めとするアイドルが大活躍、チェッカーズがデビューし、日本音楽会は、最盛期を迎えたと言えよう。しかし、そんな邦楽全盛期に負けず劣らず流れ込んで来たのが、80‘sという今では伝説となっている洋楽の大流行だ。

 当時中学生だった私は、前述したような、歌の上手な日本のアイドルたちの楽曲も、嫌いではなかった。しかし、性格が捻くれていたせいか、周囲の当然のように熱狂する姿に、素直に従うことができなかった。何か人とは違うものを求めていた。その欲求に応えてくれたのが「She's So Unusual」(彼女は普通じゃない)だった。

 当時、ファーストアルバムだと言うのにシンディー・ローパーは30歳。中学生からは、おばさんとも見える彼女が放つ、常人離れした歌唱力とレインボーに変化するボイスに、私は初めて歌手も楽器の一つであることを思い知った。そして、30という遅れたデビューに隠された何かがそう感じさせたのだろう、同じく80‘sの扉を開いたと言える、マイケル・ジャクソンやマドンナですら、表現できていない、強烈な個性を楽曲に吹き込んでいた。
 中でも、アルバム終盤に収録されている楽曲「He’s so unusual」は、革命的と言えた。蓄音器風のレトロな音調でしかも、モノラル再生で、1分半、とある少女のくだらない愚痴が語られる。

 Oo, what that boy knows He's up in his Latin and Greek
 But in his chicin' he's weak  cause,
 When I want some lovin' And I gotta have some lovin'
 He says 「please! stop it please」
 he's so unusual....

 「彼ったら何でも知っているのよ。ラテン語ギリシャ語もお手のもの。
 だけどそんな彼にも苦手なものがあるのよ。
 彼といいことがしたくなってちょっぴり愛し合おうとすると
 彼は『お願いだからやめてくれ』って言うの。
 彼ってとっても変っているの…」

 銃声が2発鳴って、アルバムラスト曲の「Yeah Yeah」のイントロがリズミカルに流れる。

 シャッフル再生しか知らない現代っ子にはわからない痺れる演出だ。

2 We‘re so unusual

 本来、本稿は本Chapter1の最終稿として投稿し、そのChapterタイトル「unusual」について、種明かしをするためのものであった。
 しかしながら今回の孤憤篇においては、第1稿から重い社会問題を取り扱い過ぎて、いささか疲れが出てきた。
 そもそも私は、現在の政治や社会に不満ばかりを抱えている革命戦士でもなければ、つまらない不平屋でもない。
 私は保育園から大学まで公立で、今は税金から給料をいただいていてこの国には、恩義こそあれ恨みなど毛頭無い。コロナの時は私も罹患したが、迅速かつ手厚い対応に感動した。
 先日のサミットのゼレンスキー大統領のサプライズ出席はマジで感激した。多くのマスコミが言うように、グローバルサウスを味方につける抜群のタイミングだった。日本の外交力も捨てたもんじゃ無いと感心している。
 しかし、だからこそであろう、本来の主権者たる諸国民が一部の五蠹(よからぬことを企む者)によって、その勤勉がもたらす成果物を巧妙に搾取されていく様を見過ごせないでいるわけだ。

 Chapter1のタイトル「unusual」は、普通じゃないという意味で、意訳すれば「非常識」とも言い換えられる。しかしてその心は、「あなたの常識は本当に正しい?」である。

 前述の歌詞の中で、おしゃまな女の子の常識は、初な大学生にとっては非常識であった。

 この国は確かに安定している。治安も良い。おばあさんが殺された途端に、ルフィー1派を掃討したところなんて痛快だった。しかし、どこか貧困を感じることはないか?なぜか豊かではない。働いても働いても楽にならない。
 それは、絶対当てる気のないミサイルに怯えさせて、軍事費を増大させたり、産めよ育てよの掛け声の割には、子育てパートタイマーが最も集中する収入ベルト、100万円から150万円に、群がるように保険料・年金・地方税を課したり、このままでは年金制度は破綻すると将来の不安を煽っては、せっせと貯蓄させ、その貯蓄は国の借金に化けている。
 消費税のインボイスの問題は、結局、免税事業者の納税8割引などと言うウルトラCを飛ばして、骨抜きにしやがった。元来これまで、払いもしていない免税事業者への支払いについて、課税仕入として控除し、実質益を得ていたのは、中小の下請業者じゃなく、元請けの大企業である。インボイスが導入され、その益税が失われる時、これを贖うのは大企業の務めなのに。

 とまあ、こんな具合に、私たちは、不勉強なため、一部の人間が不都合な情報を操作して、不当な搾取をする、unusualな世界に生きている。

3 I’m so much unusual

 Chapter1では、もう2、3点、世のunusualにスポットを当てたいと考えている。現在執筆中の「少子高齢化問題にアバダケダブラ(アブラカタブラ)」では、年金制度に回天的な(天地がひっくり返るような)解決案を示そうとしている。しかし、ビジョンは捉えているのだが、そこへ繋げるストラテジー(道筋)が、なかなかまとまらず、もう2ヶ月くらい座礁している。

 もともと、この孤憤編を執筆するにあたっては、かなり葛藤があった。
 以前も話したが、私は多弁症の治療のため、不眠症に悩む方々が欲しがる市販の導眠剤の、数倍の威力のある睡眠薬を1日6錠処方されている。常人では起きていられる事が不思議なくらいなのに、それでも私の頭の中は、無駄に回転を続けている。
 1年足らずしか従事していない業務なのに、効率化案を4つも5つも考えている。まさに病気だ。それが、口からはみ出て来ないのは、気狂い並みの薬物療法のお掛けで、詳細な立案ができないためだ。
 私のような、中途半端な士官候補生崩れは、どこの部署も願い下げで、どうしても人手不足の部署を転々とすることになる。当然どこへ行っても新参者で、「何かをやらかして道から外された奴」という看板付きだ。だから、まさか、業務の効率化案など唱えた日にゃあ、総スカン間違い無しであり、お薬さま様様と言う訳なのである。

 その代わり、文章力は完全に失われた。
 前回投稿の「借金王国万歳」については、仕組みそのものは単純な話なのに、興味を惹くことや、エビデンスを示すという約束事を意識し過ぎて、5400文字にもなってしまった。

 どういうわけか、私のブログのアクセス数ダントツの1位は、前作の序盤に書いた「マグナ・カルタ」だ。まあ私が憲法学に目覚めるきっかけをくれたエピソードを語っているもので、興味を持ってもらえることはとても嬉しいことである。私自身、先日読み返してみたが、我ながら、上手くできた文章だと感心した。しかし、その文字数に愕然とした。

 2800文字!

 執筆中の「少子高齢化問題にアバダケダブラ(アブラカタブラ)」は、主眼の年金問題解決策に入ろうと言うところで、4400文字になっている。まだまだ文章の練り直しが必要だ。やれやれ。

 主治医は、私の才能を高く評価していて、やたらと退官して独立することを勧めてくるが、彼以外にその選択肢を薦める人はいない。私はあまりにもunusual過ぎて、きっと何をやっても上手くいかないと判断されている。まずは社会に適合するようになってからの問題だと言う訳だ。

4 So unusual may change the world

 しかし、焦ることはない。韓非子は言っている。
 (韓非子_解老篇「大器は晩成、大音は希声」)
 「その昔、楚(そ)の荘王は、即位してから三年もの間、法令を発することもせず、全く政務を執ろうともせず、日々、遊蕩をつくすばかりだった。将来を不安視した大臣が、ある謎かけをした。「南方の丘に鳥がとまっています。その鳥は三年もの間、羽ばたきもせず、飛ぶことも鳴くこともしないで、ただ黙って静かにしています。これはいったいどのような鳥でしょうか?」と。
 荘王は答えて言った。「三年も羽ばたきをしないのは、そうすることで翼をより大きく伸ばそうとしているのだ。飛ぶことも鳴くこともしないのは、そうすることで人々の生き方を観察しようとしているのだ。今は飛ばないが、飛ぶときが来ればきっと天まで昇るだろうし、今は鳴かなくても、鳴くときが来ればきっと人々を驚かすだろう。」」果たして数年後、荘王は、天下の覇者となった。かの有名な、「大器晩成」の逸話である。

 前作の私は、発想力と想像力、奇抜な展開、そして巧みな文章力を駆使して、自分の才能の限界にチャレンジし、これを残した。今は、社会適合性を重視し、リミッターの範囲で発想し、ある一人の常識人の助言を取り入れながら、慎重に発言を選んで執筆している。
 その代わり、前作より、より過激な社会批判を展開している。
 いずれ、リミッターを外せるようになったとき、この声を抑えて、良識の範囲で翼を養った経験が、ただの普通じゃないunusualを演出してくれるかもしれない。
 孔子は、自分と理想を共有できる君子を求めて転職を繰り返し、56歳を過ぎて、これを諦め、自分が師匠になることにしたところ、3000人の弟子を持つに至ったという。私も、まだ50代、まだまだ成長し、名著(大器)を記す時間は残されている。

God save the loan kingdom 借金王国万歳!!

1 やっぱり異常⁈日本の借金

 2023年5月12日 財務省の発表によると「国の借金」と言われるものの、累積額が1,270兆円を超え、ついに人口1億2200万人で割ると、国民一人当たり一千万円を超えることがわかった。一人当たりという事であるから、4人家族の人は、4千万円抱えている事になる。

 その異常さを国際的に見てみると、金額ではアメリカについで世界第二位であるが、対GDPと言われる借金の重みを測る測定法だとダントツの世界第一位である。(ちなみにアメリカは、対GDPで測ると12位である)

 すなわち、この地球上で稼ぎに似合わない借金を一番しているのは誰だと言うと私たちだ。ちなみに、経済破綻で国が倒れそうになったギリシャは今でも残念ながら、ワースト2位。それでも対GDP比 172%まで下げてきている。日本はなんと対GDP比 261.3%。

 これでよく国が倒れないものだと危惧している人も居るだろう。

 しかしこの危惧に対して多くのマスコミや政治家がこんなことを言っている。

 「日本の借金1200兆円はほとんど日本人から借りているものなので大丈夫。EUや外国人からユーロで借りていたギリシャとは違います。」

 なるほど外国人なら他国が滅びようが関係ないからいつでも借金を引き上げてしまうが、日本人が借りているのなら、日本が滅んでは困るから、強引に借金を引き上げる事はないだろう・・・全くの嘘です。

 金を貸す人、すなわち投資家と言うものは儲かる所には金を貸す。そして潰れそうなところにも金を貸す。それは潰れたときに儲かる仕組み(いわゆる「逆ザヤ」)が世の中にはあるからだ。

 そして、世界には機関投資家という怖い人たちがいて、まやかしの資産でフラフラしている企業を見ると、その弱みに付け込み、破綻させ、逆ザヤをガッポリ儲ける人たちがいる。

 1997年7月、微笑みの国タイは、この機関投資家の餌食に遭い、その通貨バーツは紙よりも価値の無いものになりかけた事がある。東南アジアASEAN諸国で必死に支え合い、なんとか乗り切ったが、機関投資家という連中が、武器商人より恐ろしいことを思い知らされた。

 しかし、その機関投資家が、なぜか、この危なっかしい借金王国、日本を狙おうとしない。それはなぜかと言うと、この借金を貸している人が絶対に借金を引き上げようとはしないことをわかっているからだ。つまり多少揺さぶりをかけても、日本の借金は日本を揺るがさないのである。

 

2 日本に金を貸している人

 いったい日本に多額の金を貸してくれて、しかも、絶対に引き上げない人たちとはどう言う人たちなのだろう?

日本の借金とは、基本的に日本銀行が発行する国債であり、これを購入してくれる(引き受けてくれる)人が、日本に金を貸してくれている人達だ。だから、国債保有している人たちを探せば良い。

 

 その考察に入る前に、日本の借金1,200兆円はまやかしだと唱える人の主張の中に、「日本は、国有財産をたくさん持っているから、いくら借金しても、それで返す事ができる。」と言うのがある。これについて検証してみよう。

 確かに、日本の国有財産は、600兆とも700兆とも言われているが、そのほとんどは、土地や建物といった固定資産だ。それらの大半は、現実問題として不売品と言って良い。例えば、「法隆寺」はとても高価な国有財産だが、果たして売れるだろうか?と言う話。少なくとも林野庁管轄の膨大な資産は皆同じだ。他の省庁の資産は、庁舎や官舎など公務に資する必需品だし、流動性があって、価値が期待できるのは、民営化した元国営事業の株券くらいだが、こいつは、借りている借金より利息を生んでいる。

 しかし、実はこの空虚に近い国有財産説は、あながち嘘ではない。

 日銀が自分で発行している債権を自分で保有しているという事を知っている人は多いだろうが、その額が500兆円も有ることはあまり知られていない。

 自分で借りた金を、自分が貸主として引き受けているのだ。おかしな話である。 ただ、その根拠として、上記のような、売れるかどうかわからない資産が、担保になっているとのことである。どうにも危ない話をしている奴のようにしか見えないが、とりあえず1,200兆円のうち、500兆円は、日本銀行が引き受けているわけだ。この500は、貸し剥しに会うことはない。

 

 次に残りの700兆円の引受人を考察していこう。

 私も含めて、周囲で株を始めたと言う人は見かけるが、国債を持っていると言う人は、喫煙コーナーで葉巻を吸っている人間を見つけるくらい難しそうだ。どうせ、どこかの富裕層か大企業がガッツリ囲っているんだろう。と思いがちだ。

 

 10年ほど前、トマ・ピケティはその著書「21世紀の資本」の中で、世界の上位10%の富裕層が世界資産の7割から8割を保有していると語っている。おそらくこの富の集中はその時期よりもっと進んでいるだろう。

 しかし、2017年の資料だが、日本の金融資産総額1,500兆円の内、上位4%の富裕層が300兆円しか占めていないことがわかっている。そして、逆に総資産5000万円未満のマス及びアッパーマス層と呼ばれるいわゆる庶民階層の保有資産が3分の2の900兆円を占めていることもわかった。まあ、金融資産だけをみた話だが、国債を誰が引き受けているかを考えるだけなら、それが富裕層に集中している様子はない。生活保護に頼る人も増えたが、まだまだ中間層は頑張っているわけだ。

 

 では、大企業が買い占めているのか?

 2022年、国内企業保有資産時価総額ランキング(銀行預金を除く)によると、一位はTOYOTAなのだが、2022年の有価証券報告書を見る限りでは、公社債保有高は1,125億円。桁が違い過ぎる。

 いや待て待て、なんで銀行預金を外す?「だって、銀行預金は人からの預かり金だから、その企業固有の資産とは言えない。だから時価総額ランキングには反映されない。」しかし、銀行の預金というのは、人に貸すために集められているもの。そして、国債は、彼らにとって、列記とした貸付金ではないか?

 と言うことで、メガバンク4社の有価証券報告書を見てみた。

 出ました!三菱UFJ 33兆円、みずほ25.6兆円、りそな25.6兆円、三井住友15.7兆円。驚いたのが、ゆうちょ49兆円と、金融機関じゃない日本郵政34兆円だ。

 

 そうです。日本の借金を支えているのは、日本の金融機関です。というか私たちの貯金です。日本郵政がしこたま溜め込んでいる国債も、かつて私たちの両親の世代の人たちが、「一番安心な銀行」として愛親しんだ郵便貯金が元手です。

 

 かつて小泉純一郎と言う総理大臣は、日本政府が郵便貯金国債を引き受けさせて、無駄遣いの限りを尽くすので、この関係を断ち切ろうと郵政省を民営化した。ところがこの偉業に気づいている国民はほとんどいない。

 「日本の借金は日本人から借りているから大丈夫。」と言われ、どっかの富裕層か大企業が貸しているのかと思っていたら、なんのことはない、貸しているのは自分たちなのだということをまるで気づいていないのだから、この借金は引き上げられることはないわけだ。たとえ、今この話を聞いて気づいたとしても、この借金を引き上げたら、自分の貯金がなくなるのだ。そりゃ誰も返せとは言うまい。

 

 とまあ、回りくどい話をしたが、これは後半の話をわかりやすくするため。手っ取り早く知りたい人は、ネットで「国債保有者」で検索すれば、トップヒットする。

国債等の保有者別内訳. (令和4年9月末(速報)

 

3 God save the loan kingdom 借金王国万歳!!

 この状況がへんてこりんなのは、まず一つ、「なんで俺たちは利息を払っているんだ?」という話。国家財政逼迫の折、国債の償還に係るいわゆる国債費は令和4年度予算で24兆円。そのうち利息に相当するものは8兆円。なんじゃそりゃ。わしの金やないかい!

 今一つ不思議なのは、どうして富裕層や大企業は怒らないのだろう?

 私の預金など勝手に使われて、なぜか利息を払わされても、大したことは無い。自分の預金に利息をつけられて、預金額も払う税金も多い富裕層や大企業の方が、痛手では無いのか?そして、知的レベルの高い彼らが、このへんてこりんな状況に気づかないはずもない。

 しかし、おそらく、彼らは国債よりもより利回りの良い金融商品を購入して運用しているのだ(もし国債の方がお得なら、TOYOTAの余剰資産はもっと公社債に注ぎ込まれているだろう)。だから、金融機関は、この資金については、もっと利回りの良い運用を迫られる。その分、利回りの悪い庶民の預金は国債で堅実に利ザヤを稼ぐ。そうすれば、彼らの持つややリスキーな資産で損失が出ても、それで補える。

 なるほど、富が集中しておらず、金融資産総額1,500兆円のうち、900兆円をマス及びアッパーマス層が保有している日本だからできる狡猾で巧妙な仕組みだ。

 国債は、今は1%以下の利回りしかないが、かつては、8%の時期が20年以上続いたときもある。経済成長や、好不況に合わせて変動する公定歩合や市場金利に確実に連動する。親方は日の丸で、戦争でも起きない限り倒れない。そして一応日本は、憲法上戦争はできない。なるほど、理想的な貸付先だ。

 さらに付け加えると、国は、突然借金を棒引きにしたり、利息の支払いを延期したりするような裏切り行為はできない。なぜなら、それで、銀行が破綻したら、預金保険制度により、一人1000万円まで、損失を補填しないといけないからだ。 

 誰が考えたのか知らないがよくできた仕組みだ。

 

 しかし、この仕組みでは、随分、私を含む、マス及びアッパーマス層は損な役回りをしている。結局、私たちの預金は、私たちに対する貸付金に振り替えられ、私たちはその利息を払わされている。年間10万円の税金を払う人なら、そのうち8千円がその利息だ。その利息は、銀行では、富裕層が持つ高利回り商品がそれを実現できなかった時の損失補填に回される。結局、富裕層の利益を盤石にするために預金をしているようなものだ。今更悔しいからと言って、10万円ほど国債を買っても、今の利率では500円ももらえない。

 コロナにしても、防衛費にしても、私たちはそれが本当に必要かどうかもあまり考えず、催眠術にでもかかったように政府に支出を要求する。政府は苦渋の選択をしたかのように、また国債を発行するが、その裏で「これでまた富裕層の利益を守れる。票がもらえる。」とほくそ笑んでいる。

 

 後世に借金を残してはいけないと、年金を減額し、社会保険料を釣り上げ、増税も行うが、国債が増発されなかった年は無い。この振れば振るほど大きく強くなる打ち出の小槌を手放すはずがないのだ。

 まさに、“God save the loan kingdom 借金王国万歳!!”だ。

 

4 利の在る所は民これに帰し(外儲説篇・説林篇ほか)

 韓非子は、聖者の治道には、1に「利」、2に「名」、3に「威」が必要と言われるが、中でも「利」が最も重要だと説く。そして、その「利」は「民」に帰すことで国が安定するという。例えば、民は利益の前では、蛇のような鰻でも手掴みし、女性ですら毛虫のような蚕を丁寧に扱う。弱者が利益の前で勇猛になることこそ、国力の源になるからだ。

 逆に「臣」と呼ばれる、行政機関及び、公共機関が利益を得るようになると、国が傾くと、強く警戒している。もともと力のある者が、庶民の財や利益を専横していて、楽に利益を得るようになったら、国力は下がる一方だからだ。

 

 国債を減らすことは困難だろう。だから、まずは、国債保有する利益を民へ移管し、国債総額が多いと一部の人が得するという不思議な仕組みを変える必要がある。

 

 例えば、新発の国債を引き受けた者にふるさと納税並の大胆な、つまりほぼ同額の税額控除を認める。但し、富裕層優遇にならないよう、上限額を100万円に設定する。

 もちろん所得税の収入は減ることになるが、上限設定を設けているため、おそらくその金額は2、3兆円に収まるだろう。

 担保は無い。銀行と違って、裏切られて棒引きになるかもしれない。しかし、税金の一部と引き換えに得たものなのだから、しばらくでも金利がもらえるだけマシだろう。とにかく、狙いは、マス・アッパーマス層が直接国債保有することだ。

 重要なことは、本来の利益を民に帰することである。さすれば、民は、国力を上げ、利率を上げることにも勇猛になるであろう。

レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」

 レンブラントは、バロック(barroco(ゆがんだ真珠)のこと。16世紀末から18世紀に欧州で流行した芸術様式)の巨匠の一人で、精密な表情描写から、「感情」と言うむしろ抽象的なものを画上に表現する天才として、その技術は今なお勝るものはいないと私は確信している。

 画題は、新約聖書の逸話で、父親に財産の生前贈与を迫って、放蕩に明け暮れた挙句、極貧に陥った息子が、図々しくも、帰宅して、「召使としてでもいいから雇ってくれ。」と泣きつくが、父親は、怒るどころか、息子の帰還を大いに喜び、祝宴をあげると言うもの。

 どんなに悪いことをしても、悔い改めれば必ず赦しが得られると言うキリスト教らしい逸話。背中越しにも感じる放蕩息子の悔恨の思いと、帰ってきたことだけに安堵する父親の姿が、レンブラント晩年の傑作と呼ばれる面目躍如といえよう。

 まあ、どんなにどうしようもないものでも、なくなるよりはマシだとも言える。

 ああ、私たちの預金もいい加減借金になんかに振り替わって、悪さばっかりしていないで、私の元に帰ってきてもらいたいものだ。元のままとは言わない。ボロボロになって、片足の靴がもげていても、今の状況を改善できるなら受け入れてあげるから。