孤憤

Chapter2-最終稿 Ragnarok(ラグナロク)

1 臥竜
 先日、テレビを見ていると面白い話を聞いた。イギリスの新聞社が行っている、AIのグローバル化における国別ランキングで、かつてロボット大国と言われた日本は、12位まで落ちているらしいのだが、逆にイグ・ノーベル賞は、17年連続で受賞しているらしい。アカデミー賞では、「ゴジラ−1.0」が制作予算20億円(タイタニックの240億円の12分の1の予算)で、VFX(視覚効果)賞を獲得した。
 ノーベル賞というのは、正直多少政治が絡むところが有る。だから、イグノーベル賞アカデミー賞での評価は、日本人の「発想力」を、強く称えたものと言って良い。
 しかし、兎角に言われるように、日本の政府は、自国の民のポテンシャルに投資しない。
 称えられているのは、ニッチな部分で、愚直に工夫と発想の転換を続けてきた、「諦めの悪い人たち」で、メジャーな分野で活躍できそうな学者は挙って外国に去って行ってしまった。

 それでも、日本人ノーベル賞受賞者受賞時の肩書、歴代31人のうち25人が日本在籍だ。まあ、だいたい若い頃、外国で研究した内容が評価されているケースも多いが。やはり、独特の発想という最初の鍵を拾っているのは、日本生まれの日本育ちが多い。

 時折、帰国子女なるもの(他国で生まれ、幼少期を他国で過ごし、日本に帰化する者)が、多様な価値観を寛容に受け入れ、柔軟な発想をすることから、ある程度優秀であると評価されるが、日本人には、世界標準ではよく理解できないポテンシャルが存在するように思える。
 例えば、日本人は、マイノリティは排除するが、「差別」はあまりしない。つまり、人を固定観念で括ろうとしない。だから、発想に境界線がない。

 貧民や片親家族をいじめる傾向は今でも続いているのだろうか?続いているとしても、それは、いじめている側に、問題があるわけで、その情緒を育んだ親にも問題がある。日本のように、単一民族で、今のように貧富の格差がそれほどひどくない状態では、「差別」を教える方が難しい。「弱い立場の人にマウントすることの何が楽しいのか?」という質問は、「どうして人を殺してはいけないのか?」という質問より難しい。
 この二つの質問は、令和の青年から出た言葉だが、自分たちの世代がいかにトンマでくだらない事にこだわっていたかに気付かされる。ただ「差別」については、それほど単純なものではないところも感じているので、いずれ別途投稿したいと思っている。

 ところで、最近は、学校のイジメより、職場のイジメの方が問題化している。原因は、嫉妬や、やっかみというから、開いた口が塞がらない。早く石器時代の原人並みですよ。と教えてあげないと。

 パワハラ上司というのには、よく会って来たが、どうも私には、彼らは、欲求不満や嫉妬よりも、半端不良の匂いがする。今も昔も不良少年を主人公にした漫画は大受けだ。ところが、時々その漫画の読み過ぎで、ちょっと、ズレている恥ずかしい不良を見たことはないかい?私のイメージはそんなところだ?どうして、あんな奇獣が、それなりのポストに君臨しているのか?それともそれなりのポストにつくとああなってしまうのか?平民の私には理解しかねるが、どうも、日本的な古い因習を裏に感じる。

 あと、西欧かぶれの男女平等。出来もしないのに、マネをして。「親が毎日歪み合っているより、別れて暮らしている方が子供のためだ!」と言って、別れた後は、相手の悪口を毎日毎日子供に聞かせ、新しい伴侶ができたら、風呂に沈めて殺してしまう。
 行為者は、若い世代の人たちだが、西欧かぶれしたインテリが、日本人の優しくはあるが「博愛」ではないと言う特性を理解せず、同じ制度を導入し、推し進めた責任が大きい。西欧では、離婚しても家族だが、日本人は、離婚したら、他人以上、むしろ仇敵、なのである。

 最後に、ネットにおける誹謗中傷。まあ、これは日本に限らず問題になっているが、マジョリティに紛れて、ヤジを飛ばす。「あなた、その行為すぐ隣に彼氏彼女がいてもできますか?」。
 どんなに発想が豊かでも、相手のことを慮(おもんばか)る想像力が無ければ、世界の関心を集めるアニメやゲームは作れないだろう。弱い者をいじめる奴は、恥ずかしい奴、悲しい奴、という、「惻隠」の情こそが、世界に求められている日本人の特性だ。

 ということで、Chapter2の目的である、日本人の本来的ポテンシャルと、それを阻害している幾つかの要因をまとめてみた。

 ただし、その根底には、Chapter1で紹介した、富裕層と為政者の陰謀で、多くの人々が、30年間、上がらない賃金の中で欲求不満を募らせて来た結果が、社会の歪みとして出ていることも考慮して欲しい。だから、こんなことは間違っていると分かっていても、その歪みに抗えない。
 そうして、日本は臥竜となってしまった。

2 Lokiの世界
 世界を見渡せば、筋肉マッチョで、でっかい武器を持っている奴ほど、声が大きい。
 これでは、まるで西部開拓時代のアメリカだ。保安官も裁判所も存在するが、善悪を決するのは、暴力だ。その暴力が拮抗したら、両陣営武器を連ねて睨み合いだ。
 まだ、まともだったのは、こうなった時は、互いの早撃ち自慢を指名し、3歩下がって振り向きざまに引き金を引く「決闘」で決めたことだ。

 ところが今の戦争は、アドレナリンで頭が充満した連中が、リモコンでドローンを飛ばして、ゲーム感覚で人殺しのスキルを上げている。殺されているのは、VRアバターではない。その親、兄弟、子息が、次のリモコンの持ち手となる。
 消耗戦や殲滅戦などという、2000年以上前の戦争をしているイスラエルには、武器よりも、孫子の「兵法」を、トラック1万台分送ってやりたい。
 教育の稚拙な途上国の小競り合いをしていると言う話ではない。いずれも核を保有する、アドレナリンで頭が充満しちゃ困る国家が絡んでいる。

 というわけで、今の世界は、あの西部開拓時代のアメリカより酷いかもしれないわけだ。

 ハルマゲドンの伝説は有名だ。悪の化身Loki(ロキ)に完全に支配された人類を見限り、殲滅戦争を起こすわけだが、この時の始まりの合図のラッパを「ギャラルホルン」という。
 しかし、「ギャラルホルン」が鳴ったと同時に、予期せぬ「救世主(メシア)」が現れる。
 そして、何事にも半端なキリスト教の言うように、「良い行いを続けていた者だけが助けられる」そうだ(諸説あり)。

 古代人は、哲学が単純で良い。しかし、現在世界で、「何が良い行いで、悪い行いか?」をはっきり定義できる行為があるのだろうか?殺人や泥棒ですら、「三審制裁判」が必要だ。
 なのに、ハルマゲドンでは、有罪=死刑だぜ。

 もし、最後の審判が、その人の生きた所業によって判じられるのであれば、メシア(救世主)は、胸に7つの傷を持ち、気合い一つで地震を起こさせるような、アドレナリンで頭を支配されているやつでは困るなあ。

 もし、本当にこの世界が、Lokiに支配された世界に陥っていて、メシアを必要とするのなら、その人物、または存在は、理性と知性を兼ね備え、公明正大で偏見がなく、万人が敬うものであり、その採決は、万人が納得する方法で行われるべきだろう。 

3 天下布法
 戦国の勇、織田信長の目指した理想は、強大な武力によって、あまねく天下を平定することであり、これを「天下布武」と称した。
 私の理想は、公明正大で優れた「法」により、あまねく天下を平定することである。そこでこれを「天下布法」と称する。

 強大な武力で世界を屈服させることは理論的には可能であろうが、一時の平穏を得るのみである。江戸幕府が250年続いたのは、結局、優れた法体系と、それを運用する優れた役人、すなわちサムライの存在に帰すると先日述べた。
 しかし、まともな民主主義国家が30カ国有るか無いかの現在世界で、一律の法に従う国家がどれほどいようというのか?

 韓非子は、君主国が割拠する春秋時代法治主義を唱えた。まともな法治国家というと、民主主義国家で有ることが条件のように言われることがあるが、法治主義に、民主制の条件は無い。君主国家も一党独裁国家といった非民主国家も、その法理に従う方が国家にとって有利であるという状況を作ればその法を守る。

 「匹夫に私便有り、人主に公利有り(韓非子55篇八説篇)」、どんな国の国主だって、私事の面前の成功より、国家の安寧を願うのである。

 Chapter3では、この天下布法の基本戦略や、具体的にどのように日民主国家をも巻き込んでいくか。等が主題となる。
 韓非子流なので、利益誘導策を基軸に考えているが、それの戦術が現実的に効果的であるか否か等を検討して行きたいと考えている。

 本稿では、これを実行する担い手を検討するのみとする。

 天下布法には、非民主国家も従ってもらうと述べたが、その法を制定し、運用していくのは、民主国家から選ばれるべきだ。それは、天下布法の第一段階の法整備が自然法、すなわち、基本的人権・平和と自由と公正の確保だからだ。
 人命や人権を軽んじる国家が中核になっていては、それは望めない。
 もちろん、非民主国家の国主からは、不満の声が出るだろう。
 「国会」と同じく、「法」を定める機関というのは、かなりの権力を持つことになるから。
 だったら、選挙で決めれば良い。
 ただし、被選挙権を持つ者には、以下の条件を課す。

① 長期間高度な法治主義を貫いている国。
② 長期間治安が安定しており、あからさまな国際紛争を起こしていない国。③ 最低限の基本的人権を保持し、その点においては、国民から不満を買ったことの無い国。
④ 国際活動に積極的に参画し、交友関係が広く、かつ影響力もある程度持つ国。
 以上の条件を満たすとして10カ国以上から推薦を受けた国

 この条件を満たす国となると、非民主国家だけでなく、アメリカもイギリスも入れないだろう。
 一番に名前が上がるとしたら「日本」だろうが、他にも、ドイツ・カナダ・オーストラリアなど、候補として悪くはない。

 別に、単独で天下布法を実現する必要はない。むしろ、その方が反発も多く不合理である。名前の上がった国々が、天下布法委員会を結成して、ブレインストーミングとコンセンサスを経て、国際世論に提示することこそ望ましい。
 ただ、その活動の中で、日本が果たす役割は決して小さな物ではないことは容易に予想さされる。
 そして、天下布法を維持する上で重要な鍵は、「国際司法の強化」である。
 国際司法は、いわば執行官(実働行政機関)の役割を持つことになる。
 ここで、思い出してほしい。
 韓非子「善吏徳樹(善く吏たる者は徳を樹え、吏能わざるものは恨みを樹)」と、日本のサムライの果たした役割を。 

 というわけで、なぜChapter1は、搾取されポテンシャルを削られていく日本人に「いい加減目覚めなさい。」と言ったのか?なぜ、Chapter2では、搾取だけが原因ではなく、日本人自身が持つ問題が、本来のパフォーマンスを発揮することを妨げていると語ったか?分かってもらえるだろうか?

 私は、日本という国の低迷や没落を嘆いているのではない。そのことが、世界平和・天下布法を遅らせる、または永遠に不可能にすることを嘆いているのだ。

 もう一度言う。人類に本当に必要なメシアは、石ころをパンに変えたり、水をお酒に変えたり、処刑されても2週間後に復活したりしなくても良い。脳みそをカラカラになるまで搾り切って、理性と知力によって、少なくとも人が、同じ地球人に怯えさせられることの無い世界を作る者だ。

 我が国は、このまますっとぼけていては無理だが、その素養を最も多く持った国なのである。

エドヴァルド・ムンク「叫び」

 「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。(中略)友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」

 幼少時に母親を亡くし、思春期に姉をも失ったムンクは、生涯「死」をテーマとする作品に取り憑かれる。日々「死」に向かい続けていく内に、いつしか、生や愛の喜びを描くようになる。そんな時、天から「それでも死は誰にでも訪れる。」と言うイカヅチの如き「叫び」が聞こえ、彼はまた、深く「死」に向かい合っていくわけである。

 こうやって争いと恐怖の絶えない世界を語っている私も、それを読んでいるあなたも、決して他人事ではないのだと言うメッセージとしてこの絵を掲げる。